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講習を終えたあと担任につかまってしまい、気がつけば日も落ちる寸前だった。騒がしかった校内も文化祭も終わり風も冷たさを増してゆけば、受験前の緊張感がひたりひたりと足元に忍び寄ってきていた。
「あれ、東堂さん」
ふと視界の端に見慣れたジャージの色が見えて思わず覗き込んだ先、相変わらずしまりのない顔で振り返ったのは真波だった。あいかわらずぴょこんとヘルメットから飛び出た髪が、風とともにひよひよと揺れている。
「なにをしているのだ、そんなところにひとりで」
近くの木に愛車を立てかけさせたままあらぬ方向をじっと見つめていた後輩に、片眉を上げて歩み寄る。何かあるのかと思ってみたが、校舎裏に続くこの場所にあるのはところどころ枯れかけた雑草だけだ。
「猫でもいたのか」
言いながら、懐かしい面々を思う。まあ懐かしいとは言っても寮に帰れば日を置かずに顔をあわせるのだけれど、同じ時間を汗をかきながら過ごした彼らは存外動物好きで、なにくれとなくエサを与えては可愛がっていたのは自転車競技部のメンバならたいていが知っていた。
だけど、真波がなにかを特別可愛がっていたことがあっただろうか。どちらかというと、猫と同じように皆にかわいがられていた記憶はあるのだが。気ままに風の吹くがままふらりといなくなるところも、そういえば似ていなくもない。
だからこそ、自転車と山に関すること以外に興味の引くものがあったのかと新鮮な驚きが芽生えた。だがそれをそのまま口にするのはさすがに憚られたのに、妙に聡いこの後輩は「まさか。荒北さんや黒田さんじゃないですし」と爽やかな笑顔を浮かべたままばっさりと切り捨てる。
同じクライマーとして一緒に走ってきたとはいえ、東堂は真波が心の底でなにを考えているのか理解しているとはいえなかった。そしてそれでいいとおもっている。ちらちらと垣間見える頂を狙う熱はきっと絶えることはない。同じ山を愛するものとして、それさえあればとそんな風に思いながら、ただ引いて、背を押してきた。
けれど、そんな真波が自転車を乗るでもなくこうしてぼんやりと立つ姿は妙に気にかかる。
「なにを見ているのだ」
「あれですよ」
何もない地面を指してからりと笑う。なにもない。真波の足先から伸びる影以外は。
「最近帰ってきたときにときどき、ここで休憩しているんですけど。前はあのフェンスの、うーん、ちょうどあのあたりだったんですよ」
指でさしながら、だから背が伸びたのかとおもったんですけど、制服はきつくならないし木も一緒に伸びているって気付いちゃいましてねと笑った。夕日を背に伸びる影はその更に先まで侵食し、そのてっぺんはやはり風になびいて揺れている。
「理科で習っただろう」
「そうなんですよねえ。忘れちゃってましたけど」
立ち止まったままのふたりの間をさあっと風が駆け抜ける。標高の高いここは、すでに揺れる枝も寂しい。影だけではない。そこここに季節の移り変わりを示すものばかりだ。自分も、このジャージが日常ではなくなって、しばらく経つ。
「期末は大丈夫なんだろうな」
「いやだなあ、東堂さんまで委員長みたいなこと言わないでくださいよ」
「……くれぐれも迷惑はかけるなよ。言っておくが、お前はこの山神の、後継者なのだからな!」
「はははっ。頑張りますねえ」
「お前というやつは……。緊張感がまったくないではないか」
そういいながら、並んで影をみやる。言われてみるまで、確かに今この瞬間まで影の長さなど気にも留めていなかった。部活を引退したからといって、有り余る時間など当たり前だが全くない。講習に課題に授業に志望校選定にと、追い立てられるように時間だけは過ぎていく。むしろそれで助かったとおもうことさえあるほどだ。余計なことなど考えている暇は、ない。
傍らに立つこいつはどうだろうか。ふと、そう思った。
あの夏。
あの経験を経て真波は無邪気に笑う少年から青年へと足を踏み出しつつある。それは頼もしくもあり、同時にそうさせてしまった自分たちの功罪をまざまざと見せ付けられている苦しさもあった。けれど、自由に走れとそう背を押すと決めたときに東堂は、それが産み出した結果をも飲み込むことを良しとした。そしてその足が再び踏み出す様を見守ると決めたのだ。
「あの影が」
ぽつりと落とされた言葉に、無言で続きを待つ。
「今度はだんだん短くなるなんて信じられないなぁ。なんだか、身長が縮んじゃうみたいでイヤじゃありません?」
「それではいつまでたっても山に登れんではないか」
影が長くなるということはつまり日が短くなり、場合によっては山道を白く覆ってしまうということだ。自分たちクライマーにとっては一番思うように走ることができない時間の訪れを意味する。風を味方としただ登ることを愛する真波にとって、地元とはいえ常人よりさらに思うようにならない季節が去ることを願わずにはいられないのではないのか。
「それは困りますねえ」
「わかっているのならば……」
「うん、そうだんですけどね。でもなんだかもったいないなあって」
もう少し、とぽつり落とされたフラットな声。こちらを見ようともしないのに、なぜだか視線が絡んだ気がした。しばらく待っても重ねられる言葉はなくて、隣にのびた自分の影を東堂も見つめた。あの影が、すこしずつ短くなる。それはどうしたってとめることはできない。
「真波よ」
「はい」
「今は、自由に走れているか」
「ええ」
一呼吸置いて、眦に力を込め今度はしっかりと頷いた後輩に、そうかと笑った。これ以上言うべき言葉は道の上で既に交わしている。
ふと、一足先に海の向こうへ渡ったライバルを思い浮かべた。そしてその後ろを追いかけていた、どこか不思議なちからをもつ少年のことも。彼らもまた、こんな気持ちになったのだろうか。置いていくものと、置いていかれるもの。まだ少し先の未来を思って、だがその寂寥感としか呼べないものを振り払った。
吐き出された息はまだ淡く色をつけるだけだ。けれどそれは影の長さが変わるのと同じように時を刻んでうつろいゆく。
そうしてふたたび、夏がやってくる。あのどうしようもなく暑い夏が。
――感傷に浸っている暇など、おまえにはないだろう?
それは真波にかける言葉なのか、それとも自らに返ってくる言葉なのかふと見失い、そもそも導いてやるなどと傲慢なことをいうのも可笑しい気がして、東堂はただ、横目でその顔を盗み見た。
「オレはどこにいようと見ているぞ」
「……ははは、それじゃあ東堂さん、本当に忍者みたいじゃないですか」
「真波よ、お前、尊敬する先輩に向かってそれはさすがに失礼だとは思わんのか」
「えー、そうですかねえ。すみません」
「気持ちがこもっていないな!」
ゆるく笑い声をあげながらかなわないなあとこぼすその顔はすっかりほどけた末っ子のそれになっていて、東堂は自分がかけた言葉が正解だったことを知る。
そうだ。それでいい。強く在るために、お前は自由に走れ。そしてその背中を、オレは何度だって押そう。例え同じ場所に立っていなくとも。そして、お前はさらにはやく駆け抜けろ。
「ねえ、東堂さん。オレね、」
それでも今はまだ、オレには敵わんがな。
先ほどまでどこか迷子のようだった後輩が、どこかふっきれたように口を開くのを、東堂はただ、静かに待った。