【F01】光に向かう

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 暑さで滴る汗をシャツの袖で拭う。そばに置いていたボトルを手に取り、少しの水を口に含んだ。
 目の前にあるロードバイクにそっと触れる。明日から行われるロードレースインターハイに備えた重要なバイクメンテナンスだ。古賀にとって、自分にできることはおそらくこういうことしかないのだと、レースの前日になってもなお残っているほんの僅かな諦めきれない気持ちに自嘲めいた笑いが零れる。
「お前は、オレと同じだと思っていた」
 まだ午前中だが日陰で作業をしていても暑い。だからと言っていいのか、それとも今この時だからなのか、考える前に古賀の口から言葉が滑り出ていた。バイクに落としていた視線を上げ、日陰から少し離れたベンチに座っている彼の横顔を見る。急に飛び込んでくる明るさに眩暈がしそうだ。
「いや、違うか。オレがお前と同じになったと思っていたんだ、手嶋」
「なんだよそれ」
 離れた場所で騒がしく準備をしている後輩を困ったような笑顔で眺めていた手嶋は、そのままの表情でこちらを向いてそう言った。
 
 入部当初、先輩たちからの期待を一身に受け、古賀自身もそのことを疑わずに走り続けた。初めてのインターハイの舞台でも、自分は選ばれた輝ける存在なのだと信じていた。
 たった一つの判断ミスで。いや、もしかしたらこの結果に至るまでに多くの過ちを犯していたのかもしれない。古賀は一瞬にして輝かしい舞台上から身を引かざるを得なかった。
 
「暗い影の中さ。強い光が近くにあればあるほど、もはやオレ自身が影なんじゃないかと思って立ち止まったもんだよ」
 目を瞑り、網膜に焼き付いた手嶋の姿に懺悔するように告げる。
「お前も、ずっとそう感じていたんだと、その時に思ったんだ」
 古賀が再び目を開けると、彼は少しだけ驚いたような表情をしていたが、すぐにいつもの作ったような笑みを浮かべる。真夏の太陽の光が、その顔を正面から照らしていた。
「オレも同じだぜ。嫌になるよな、すげえヤツらが傍にいるってのは」
「それでも……!」
 それでも、お前は今そちら側にいるじゃないか。
 言いたくても、これは言ってはいけないのだろうと、古賀は言葉を飲み込む。影に目もくれず走り続けた自分にそんな資格はないのだ。手嶋は急に口を噤んだ古賀を見て、考えながらゆっくりと口を開く。
「うん、そうだな。古賀は、光だった。そしてオレは、確実に影だった。光の中で進んで行くお前を羨んだことだってあったし、影の中で立ち止まる自分を呪ったことだってあった。今でもオレは影にいる人間だよ。でも、やっぱり止められないんだ。光に向かって進んでいくことを」
 ほんの僅か俯いた手嶋の顔に、影ができる。
「もちろん、光に向かうと目が眩みそうになる。己の影をより一層明確にされる気がする。それでも、この影もオレの一部だし、それでも、オレは自転車に乗る」
 そういうもんだろと言って、顔をあげた手嶋はいつものように軽くウインクを投げて寄越した。その顔が眩しくて、目を細めた古賀の顔は、彼にどう見えていただろうか。
「なあ、公貴」
 今はもう、くすぐったい呼び名だ。
「明日からの、オレたち三年生最後のインターハイ、お前も一緒に走り抜けてくれるよな」
 緑の差し色が入ったロードバイク。今まで以上に願いを込めて磨いたフレームに、陽が射した。もっと先に、もっと速く、オレの、オレたちの目指した光の、もっとその先に。
「ああ、そうだな……純太」
 影を抱いてなお、光に向かって進むのだ。

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