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世の中の弟のように甘え上手かは知らないが、今思えば、兄に甘やかされていたと思い出してはしみじみ感じる。
幼い時分の年の差というのは大きく、二つ三つ違えば体格も知能もずいぶん違う。勝てなくて当たり前の筈なのに、一緒に外遊びに混じりたいと言っては加えてもらった。兄はいいよと笑いながら、自分に見えないところで気を使ってくれていたのだ。
一度も鬼にならない自分はすばしっこくて、かげふみが強いのだ。
その勘違いは幼稚園の年長から一年ほど続いた。兄が、兄の友人たちに『影踏みだけだから』『寿一を鬼にはしないようにしてくれ』と頼んでいたのを知ったのは、もう数年大きくなってからだった。
それでも時々夢に見る、走り回っては日陰に逃げるすばしっこい幼い自分を。幼子の全力で走れば、ロードバイクに乗っているのと変わらないほどの風が、びゅんと頬を撫でていく。心地よくて、楽しくて。
「でもさ、おめさん」
不意にかけられた声。
そこに立っていたのは、この当時はまだ知り合っている筈もない新開だった。知らない筈の幼子の頃の姿で、彼は、呆然と立ち尽くすこちらの足元を指差した。
「鬼にならない筈だぜ
、
だ
って
踏
む影
が
な
い
ん
だ
か
ら
」
「――――…ッ!!!」
ベッドを軋ませながら飛び起きた其処は、まだ暗い寮の自室であった。五月蝿く鳴り続ける心臓の音が、脳にまで響くようで。起き上がりながら首筋を手の甲で拭えば、冷や汗まみれの首筋がべたついていた。
部屋の中は、かちこちと微かな音を刻む目覚まし時計以外の全てが止まっているようにさえ思えて。ただ暗くて光も影もない部屋に耐え切れずカーテンを開ければ、外灯の白い光が部屋に差し込んできた。暗闇に慣れていた網膜への刺激にやっと生きた心地がして、窓枠にもたれ掛って深く溜息をつく。
暗い部屋に差し込む外灯の光を見て、思わずその一筋の光に手を伸ばした。手のひらは光を受け止めて白く、そして、その手のひらと同じ形の影が、床に落ちて形を示した。
影のない自分を化け物だと、今の自分なら思えた。
恵まれた環境があり、才能があり、それに胡坐をかくことなく努力もして、自分達が疑いようもなく頂点だと思っていた過去の自分は、化け物だった。
光を、眩いなどと思ったこともなかった。渇望したこともなかった。
何故ならそれは、疑いようもなく自分が一番近い筈だったから。
影を、知った人間でなければ。光の本当の価値が理解できないように世界は作られているのだろう。
荒北は、自らを日向から遠ざけていた。
光の眩さも、影の暗さも知っていて、だからこそ真っ直ぐに光へ走り続けた。
新開は、ウサ吉の母の命を奪ったことを罰のように思って心に陰を落とした。
だからこそ、光を得る難しさを知って、その困難に打ち勝った。
東堂は、回り灯篭のように光と影を分け合う好敵手に出会っていた。
どちらが光を浴びてより輝くのか、文字通り走馬灯のように勝負もペダルも廻した。
影を浴びてなお、それを乗り越える仲間。
その先頭に立って背を見せているようでいて、その背を見つめていたのは自分だった。かげふみのように、三つの影を追って。
晩秋の、冷えた空気が窓枠からじわりと体を冷やす。落ち着ききった呼吸は穏やかに深く、同時に訪れる微かな眠気に、散乱した掛け布団を直してベッドにもぐり直した。
再び夢に見た幼子の自分に見えた影を愛おしく思えてしまったのは、可笑しかっただろうか。
この頃は知らぬ筈の幼子の三人の友のこちらを呼ぶ姿に、僅かに笑いながら隣に並ぶ。
同じほうへ伸びる四つの影は、あの噎せ返る最後の夏と同じ、王者のジャージを纏っているように見えた。