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いくらハンデ付きとは言え、もし、登りの一本勝負で勝てたら一つ、何でも言うことを聞いてやるなんて先輩の誘いに、つい乗っかってしまったことを銅橋は猛烈に悔いていた。
「バッシー、もっと息を合わせて。オレの手元を見るより、むしろ呼吸を感じるんだ」
「ブハァッ! ……なぁ、これいつまでやんだよ、葦木場さん……」
銅橋は、もはやほとんど吐き出すように黒い吹き口を離してそう言った。いつになく力のない声だ。一つ上の先輩だからあまり強くは出られない、というのもあるが、銅橋は何より、ここに至るまでの経緯とその結果の現状に、すっかり疲れ果てているのだった。
今思えば無謀にもほどがある、クライマーの先輩を相手にした勝負の後で息も絶え絶えな銅橋に、葦木場拓斗は、オレと一緒に楽器を弾こう、合奏(セッション)してほしい、という要望を勝者の賞品に掲げた。
そして今、放課後の音楽室の中、葦木場の膝の上にはかの懐かしの鍵盤ハーモニカが乗せられており、その横に座る銅橋は蛇腹のパイプの先端にある吹き口をその手に持たされている。
ホラもう一度、と相手に目で言われ、銅橋は、いい加減げんなりしながら再度吹き口を咥えた。室内前方のグランドピアノが設置されているそこ、いやここは低いステージになっていて、銅橋と葦木場はその床との段差になるところに腰かけて『セッション』をしている。鍵盤ハーモニカの吹き口から銅橋が少々ヤケ気味に息を吹き込むと、それにタイミングを合わせて葦木場の両指がなめらかに鍵の上を滑り出した。その広い手のひら、そこから繰り出される長い指が奏でるにはどうにもオモチャめいて見えるこの楽器だが、ともあれセッションは続けられる。皆に至極耳馴染みのある、温かく豊かなふがふがとした音色。相手が弾いているのが何の曲かすらよく判らない銅橋のような素人目、いや耳にもひとまず、葦木場の指と、それが撫ぜた白鍵と黒鍵から奏でられる音楽は、経験者の技巧と表現力を疑いなく感じさせられるものだった。
しかしながら、この音楽の原動力ともなっている唄口から息を吹き込み続ける銅橋にとってはやはり不可解で、困惑させられ、ワケわかんねーし早く帰りてェ、とひたすら願うばかりの状況であった。大体、なんで鍵ハモなんだよ。鍵を操る奏者である葦木場の方はまだマシだ、何ともちっぽけな吹き口を咥えて息を送り吹き続けるだけの自分は、はたから見ればそれはもうとんだマヌケに違いないだろう。茶化し、笑い飛ばしてくれるオーディエンスの一人もいないことが尚、銅橋の胸中の苛立ちと虚しさ、何より疲労感に拍車をかけていた。いても困るが。
葦木場が指の動きを止めた。鍵盤から面を上げ、こちらをじっと見つめてから眼を閉じ、ゆーっくりと首を横に振られてさすがの銅橋もキレそうになる。手の中のプラスチックのちゃっちいそれがミシッと悲鳴を上げた気がする。
「バッシー。音楽っていう字はね、『音』を『楽』しむって書くんだよ」
「あのよォ葦木場さん。そもそもコレを、弾くヤツと吹くヤツとで分けて二人で演るってのが問題なんじゃないですかねェ?」
「うーん……連弾はさすがに時間がないと思ったから、これにしたんだけどな。バッシーだって小学校の頃とか、これは弾いたことあるだろ?」
「アァ? あー……あるけど、あんまイイ思い出ないっつーか」
「?」
「わかるだろ、オレぁ、昔から手も体もデカかったし。こういう……繊細で、チマチマしたヤツは上手くできたためしがねェんだよ」
銅橋のその何気ない一言に、葦木場は何やらぱっと顔を輝かせる。
「あぁ、それなら安心して! オレも同じだよ。普通のピアノはともかく、鍵盤ハーモニカもリコーダーも、カスタネットだって小さすぎ、短すぎで弾きにくかった憶えがある。一緒だな!」
そんな相手の返答を聞いた銅橋の脳内には、その瞬間、ノッポの葦木場(当時小学生)が年齢不相応にデカい手の中で、完全に持て余したカスタネットを一生懸命叩いているイメージが唐突に挿入されて危うく吹き出しそうになる。マジで何なんだよ、この人。口の片端をひん曲げただけでガマンしたオレを誰か褒めろ。
「オレのことばっかり言うけどね、バッシー。もし今回、バッシーが勝ってたらオレに何をさせるつもりだったんだ?」
「……食堂で、追加のメシを一品か二品……」
「そうか。前から思ってたけど、バッシーって結構優しいよな」
「アンタもう黙っててくれねェかな」
「バッシーは」
葦木場は、こちらをしかと見据えていた。
「真波のことを、羨ましい、妬ましいと思ったことは、あるか?」
そうして、そう、いつにも増して優しい口調で、問いかけた。
葦木場の問いとその声音、まなざしに、一瞬虚を突かれた銅橋はまもなく、この現状と、ここに至るまでの経緯の真意に気が付く。いつもの相手からしたら少々有り得ない勝負を吹っかけられ、この、ある意味何とも相手らしい有り得ない状況に、よりにもよって自分なんかを巻き込んで。
相手の視線を、その真っ向から睨みつけるように受け止めていた銅橋はやがて、ハァと一つ息をつく。こんな盛大で壮大な前フリを仕掛けておいて、結局のところ本題はそれかよ、まったく。と、荒々しくも愚鈍ではない怪物は理解して受け止め、受け入れて答える。
「……まったくない、つったらウソになります。けどよ」
この人とは、多くを語らなくても良いだろうという気は、銅橋は最近、何となくはしていた。互いにはみ出し、行き過ぎた自分の体を痛めて散々苦い思いをして、それでもいつだって、誰にだってその椅子の数は決められている。その座を掴めなかったことが自分のせいであれば勿論、極論、他人のせいであったとしてもそこにあるのは事実だけで、それを過去にし、踏みつけ踏み締めてようやくここに立っているから。
今なら勝者の賞品に、洗濯係や片付け当番を替われってくれ、と言った、言われたとしても、きっとお互いニヤリと笑って受けて立ってみせただろうけど。
「アイツはアイツ、オレはオレ。……アンタはアンタだろ、葦木場さん」
銅橋のセリフに、葦木場は、それを噛み締めるようにしてまた、ゆっくりと一つ頷いた。
「うん。そうだな、その通りだ」
「……ハァ」
「同級生は大事にしろよ。そうだな……たまには真波に頼ったり、アドバイスを貰いに行ったりするのもいいと思う。お前にならそれができるはずだ、バッシーは、いい奴だから」
「何なんだよ、ったく……」
「よし、もう一度頭からだ」
「!? ちょ、ちょっと待てまだコレやんのかよ!?」
「夕食の時間までの約束だろう」
「グッ……!!」
「ははっ。ホラ、早く吹いてよバッシー」
「……さっきから気になってたんだけどよ、コレ、何て曲なんすか」
「ん? 知らないのか、ハンス・シュミットのフィクティヴ幻想曲、第51番。フルでカンペキに弾こうと思ったら、鍵盤が全然足りないけどな!」
「知らねェよ!!」
前言撤回だ。多くを語らなくても、どころかまず、普通の先輩後輩らしい日常会話が成り立ちゃしねェ。早くもスカスカと鍵盤を指先でいじくり出す葦木場のじとりとした目をすぐ側で感じて、銅橋は結局、先輩に逆らうことができずにやけくそで思い切り唄口を吹いた。