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別に今どき珍しくもないが、一差は鍵っ子で、しかもそれをかなり誇りに思っている。初対面でいきなり、専業主婦をしているうちの母親を見て、
「お前、家にかーちゃんいんだな。まだまだだな」
と、謎すぎるマウントをとってきた。本人もいる、その目の前で。
ベッドタウンによくありがちな分譲住宅に、越してきたおとなりさん。仲よくやるにこしたことはないが、おとなしい母親がリアクションに窮しているのを見て、
「こいつとは合わん」
と思った。
小学生男子はちまたでいわれているように全振りでアホなものだが、そのアホにだって、
「この人は、強くいったら泣いちゃうやつだな」
くらいのことはわかるものである。どっちかといえば、そういうことのほうがわかる。
だから、そういうことがわからないにしろ、わかっててやっているにしろ、オレにとって新しいおとなりさんのアホは、気持ちのいいものではなかった。
一差はそのうえ典型的なひとりっこだった。はじめて会ったころのあいつはオレよりずいぶんと小さくて、やせっぽちで、キレ泣きしてばかりのいじめられっ子だった。口ばっかり達者で、なんにもできない。オレはといえば勉強はできたし、身長もクラスの男子でまん中くらい。足も早かった。スクールカーストでいえば頂点に近い。
ただ一差は、いじめられてもへこたれずに、果敢にかみついていった。女子なみに口げんかは強くて、声もでかかったから、いじめっ子特有の、困ったら
「うっせバーカ」
とがなりたてて黙らせるような、理不尽にも屈しなかった。
屈しなかったから、しまいにはよく蹴られていた。手足がでると、見ているのがいやになったオレは、蹴ったやつの腕などをつかみ、
「やめろよ。くだんねー」
と、今思えばのたうちまわりたくなるような、かっこつけた文句を発した。
一差はいじめっ子とオレとを、まったくおなじものを見る目でギラギラ見つめていた。
小学校のあいだ、オレたちはほとんど口をきかなかったし、あいさつすら交わさなかった。オレたちは円満におたがいの存在を無視し、平和に不可侵をつらぬいていたのである。
中学に入ると、いよいよ部活を選ぶときがやってきた。オレは何でもできたから、何だってよかった。ずっとつるんでいるカズナリが、
「段竹、囲碁やろうぜ」
といってきたときは、真剣に悩んだ。囲碁、おもしろそうだったのである。見ているぶんにはわくわくした。が、ありあまる体力も発散したかったので、本当に悩んだ。
うちの囲碁部はまた、中途半端に強かった。体験入部したカズナリの目の色の変わりようを見ていてたら、
「やるならガッツリやらされるだろう」
と思えてきて、悩んだすえにオレはそれも辞退した。
提出期限を明日にひかえた白紙をカバンにつっこんで、夕ぐれの道を歩いていると、珍しくおとなりの居間に明かりがついていた。
「平日のこんな時間に、珍しいな」
と思ったとき、中から、
「なんだよ。嘘つき」
青くさい声が、スピッツみたいにギャンギャンわめくのが聞こえてきた。なだめる声はほとんど聞きとれないのに、はげしい主張だけが、つきささる。
「オレ中学生になったんだからな。約束だからな。絶対に自転車買わせる」
自転車ごときで大げさな。この歳でまだ持ってないことにむしろ驚いた。友だちと遊びにいくときなど、どうしているのだろう。そもそも友だち、いるのか。
よっぽどの大事件かとぎょっとしたのに、ふたをあけてみれば平和なものである。トイザらスでギャン泣きする幼児と大差ない。
「幸せなやつだな」
冷めた気持ちで玄関を開けた。うちの鍵はだいたいいつも開いていた。オレは高校に入るまで、自分ちの鍵になどろくに触れたこともなかった。
結局、翌日までに心はきまらなかった。担任はおかしそうに、
「珍しいな。せっかくだから、もっと悩みなさい」
といった。
オレは、オレが、まっすぐで、嘘のつけない人間だということを知っている。日ごろの行いが、こんなふうに自分を守ってくれることを、ちゃんとわかっているのである。
折り目のけばだった紙が、チクッと指をさした。
囲碁にのめりこんだカズナリだけでなく、ほかのやつらもそれなり入部先をきめて、それぞれ初日を迎えたようだ。
「こんな時間に正門をでるのはオレひとりなんじゃないか」
というおかしな不安が、足を重くした。これでは帰宅部だ。
「帰宅部の何が悪い」
というむきもあるだろうが、だめだ。甘えている気がするのである。何かにうちこまない十代なんて、どうにも不健康で、ゆがんでいる。
トボトボ歩いた。
夕やけがものすごい密度でせまってくる。何も悪いことなどしていないが、ときどき、体からはみ出たみたいな自分の思考がいやになる。
「あー、帰りたくねー」
力なくつぶやいたとき、角から、獣のような影がとび出してきた。
「うえっ」
とマヌケな声をあげたオレの横を、ジャリッと耳ざわりな音がすり抜け、強引にターンして、停まった。
「あっぶねーな」
一差だった。見たこともない自転車。ベイブレードみたいなヘルメット。ド派手なクツとグローブ。何よりもイラついたのは、オレンジ色のサングラスであった。そいつをクイッとずり上げて、キラキラした顔がえらそうに、
「気をつけて帰れよ」
といった。
カチンときた。なまいきに。だいたい、こんな時間からどこへ行くというのだ。ピカピカの自転車がとんでもなくかっこいいのも、よけいにイラついた。普通の中学生だったオレの中に、こんなCGテイストな自転車の概念はない。
「あー、くそ」
急に停まったからか、何かスイッチをガチャガチャしている。すぐにでも走りだしたくてたまらないようすだった。オレは社交辞令として、
「お前も気をつけろよ」
といった。
一差はキョトンとして、それから爆笑した。
「お前おもしれーな。スゲーえらそう」
聞き間違いかと思った。こっちのセリフである。あっけにとられていると、急に間合いをつめてくる。
「もう帰んの? 部活は? こんな早く帰れんならオレもそこにしようかな。帰宅部にしたら担任がうるせーんだよ。練習間にあわねーの、やなんだけど」
「練習?」
「コイツのな」
ハンドルを叩いて、一差は得意げに胸を張った。そして、流れるようにライトをつけ、カチッとペダルを装填すると、文字どおり一直線に飛んでいった。
オレは、一瞬で消えた星みたいな光を、ぼうぜんと眺めている、気になっていた。実際にはすぐ見失ったから、本当にただ雰囲気で立ちつくしていたのである。
気がつくとまっ暗だった。
おとなりの居間に明かりがついていて、うちの鍵は、あいかわらず開いていた。
おとなしい母親が、五秒おきに顔色をうかがってくるほど、黙りこくって夕飯を食べ終えたオレは、机にむかうとすぐに、けばだった四つ折りの紙をひらいて、
「帰宅部」
と、ていねいに書き込んだ。
オレは、オレが、ちゃんとしていることを知っている。日ごろの行いが、自分を守ってくれることを、よくわかっているのである。
それを、はじめて、愉快に思った。
涙がでるほど笑った。
一差は鍵っ子で、それを誇りに思っている。両親ともにフルタイム勤務に復帰するとき、約束したのだそうである。
「中学までがまんしてくれたら、あの速い自転車を買ってあげる」
と。
