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「ねえ、ユキちゃん」
春のうららの隅田川
のぼりくだりの舟人は
器用にピアノを弾きながら、高いところにある口が滑らかに歌う。
何を突然聞かせるのかと問えば、合唱コンクールの伴奏を頼まれたのだ、という。
「これの始まりもレでしょ?」
「俺は音感とかねーから全然わかんねぇわ」
「これも、同じ人が作った曲なんだよね」
先程まで桜色に染まる川縁を思わせていた音が突然止まった。
一呼吸おいて突然鍵盤を大きな手で鷲掴むようにして、大きい音で全く別の曲が始まる。
基本は同じ音で高さが違う鍵盤を押さえて進行するらしいその曲は、随分と苦しげだ。
よくもまあ楽譜を見ずに次々と弾けるものだと感心していれば、渦を巻くような音の塊が次々とよぎっていく。
初めて会ったのは約二年前、部室だった。千葉から引っ越してきてたまたま入った学校で、自転車をやりたくてやってきたのがよりによって全国一の強豪校だったという。何も調べなかったのかと聞くと、自転車競技部があるということだけわかったからそれ以上何もしなかった、と答えた。それに自転車だけじゃなくてピアノもあるから、と。
曲は苦悶の渦を繰り返し作って進む。途中で突如として光が差すような柔らかい音に進んだところで、手が止まった。
「提示部から転調して展開部に入ると、急に長調になって明るくなるんだよね。わかる?」
「…ん、その業界用語?みたいのだと全っ然わからん。明るくなるのはわかるけどよ」
「んーと、ソナタ形式でしょ?これ。楽章はないからソナタじゃないけど」
「だっからー、俺はソナタとかわかんねーって。時代劇の二人称か」
「ちがうよー。曲の型。提示部でテーマを見せるんだよ。これね」
もう一度出だしの苦しげな音を鳴らして数秒弾き続ける。
「で、ここの転調したとこ」
先程の明るいメロディーを弾く。
「リズム、一緒でしょ?進行も似てる。やっぱり左手のとこは渦みたいになってるよね」
右手を宙に浮かせて、左手のパートだけ弾くと確かに渦のような音はそこにある。
「ニ短調からハ長調になるんだ。進行似てるのに、こんなに印象が違うの。すごくない?」
葦木場が指で刻むリズムは正確で、確かに同じだとは流石に分かった。しかし、ピアノどころか音楽には大して詳しくない自分に何を言いたいのだろう、と思う。
そもそもこの男は、掴み所がない。特に普段はぼんやりしているし、発言も意味がわからないことが多い。その度にあれこれツッコミを入れてきたが全く効果がないので時々辟易している。
ただし、自転車に乗れば頭の中で流れているという(これ自体がよくわからないが)音楽を聴き、恐ろしいほどの集中力で駆け抜けるのだ。
本人は意図せずして入った強豪校でエースを任されるだけの実力は確かにある。
そういえば、なんの話をしていたんだったか。
「で、なんだっけ?」
「あ、そうそう、同じ人が作って、同じ音からメロディーが始まるのに全然違う色になるのって面白いよねって」
またピアノ伴奏のパートを弾けば、春の桜並木に挟まれた川の風景だ。
櫂の雫も
花と散る
眺めを何にたとうべき
普段の話し声より少し高い音で滑らかに歌う。
突然、また先程の渦巻く曲を弾き始めれば、そんな心象風景は桜よりも素早く散っていく。
「お前、いきなり全然違う曲流すなよ!ザッピングか!落ち着かねぇわ」
「んーごめんごめん」
先程展開部だとか言った明るい部分に差し掛かったところで手が止まる。
「あぁ、そうそう」
突然リズミカルな曲を弾きだす。どうやら、歌の伴奏らしい。
箱根の山は天下の険
函谷関もものならず
「ねぇ、これは今度さっきの曲の展開部…んーと、ユキちゃんわからないっていうから…えーと、真ん中と同じハ長調なんだ。それから、やっぱり同じ人が作ってる」
「だからそのザッピングピアノやめろよ」
「メドレーだよ、ユキちゃん。滝廉太郎の」
その名前は今いる音楽室の後ろにある肖像画の右端あたりにある。
他の作曲家が皆髭を生やし白い髪の西洋人であることが多い中、黒髪で眼鏡をかけた日本人で、随分と若いのだ。
「ねぇ、同じ人が作って、同じ音使ってて、それなのになんでこの曲は」
また歌曲の伴奏が止まって、ピアノ曲に戻る。
一瞬の明るい光を見せた部分が終われば再びテーマなのであろう苦悶の色に変わる。
「血の色してるんだろうね?」
生まれては消える音の渦を色で表現する葦木場の表情は特に変わらない、好きでたまらないものを誰かに話したくて仕方がないという顔なのだ。それは、自転車の話をするときと同じだ。しかし、それはゴール前で送り出すときの、普段の掴み所がない空気を全て失くしている顔にも見える。
「滝廉太郎は、日本の唱歌を作ろうっていう時代に期待された若い作曲家でね」
もう終盤にかかった曲は一層苦しげだ。
「ドイツに留学もしたんだけど、肺結核で20代の若さで死んじゃったんだ」
「ゲージュツカにありがちなやつだな」
のたうちまわるように両手の指が低音から上り、高音から落ちていく。
葦木場の解説に影響されたのか、暗赤色の血を吐き、蒼白い顔で苦しむ若い青年が浮かんだ気がして背中に冷たいものが走る。
「最後は」
大きな両手で和音を弾いて終わる。
「ニ短調のⅠの和音だよ」
「全っ然わっかんねーから、ソレ」
相変わらず音楽の専門用語はわからない。分かるのは、葦木場のピアノが恐らくそれなりに上手いのだろうことだけだ。
「この曲の楽譜の原稿ね、最後にDoctor, Doctorって書いてあったんだって。なんでドイツ語じゃないのか不思議だよねぇ」
「いや、そこじゃねーだろ」
弾き終えて鍵盤から手を離してしまえば、普段の何を考えているのかわからない茫洋とした顔がある。
「あーそれにしても、音楽室の椅子ってどうしてこんなに高いんだろ。ペダルうまく踏めないんだよね」
「葦木場、そいつぁ椅子のサイズじゃなくてお前のサイズの問題だろ。椅子は悪くないし、ピアノのサイズも変わんねーよ」
的外れなことを言い出す様子に、知られぬよう安堵の息を吐く。
もう大丈夫、いつもの天然ボケ野郎だ。
「んーそうなんだよねぇ。自転車もピアノもあんまり背が高いと困ること多くって」
よく、自転車と楽器は似ていると言う。その意味は全然わからず、また不思議なことを言っていると流していたが、葦木場の中ではやはり同列なのかもしれないと思う。
同じ音を使って違う色を見せるという音楽。
同じ機材を使ったとしても残酷な結果を時に見せるロードレース。
(いや、そこまで考えてねーだろ)
「あぁそう、今のピアノの曲、タイトルはね」
立ち上がって鍵盤を布で拭き、緋色のカバーがふわりと舞う。
「憾(うらみ)っていうんだ」
「なんつータイトルの曲聴かせんだよ」
白と黒しかなかった鍵盤を緋色が覆い隠し、更に血の色と言えなくもないその布は、黒い蓋で更に覆われる。
「苦しみでも、悲しみでもなくて、憾なんだよ。あんなに綺麗なメロディー作る作曲家の最後の曲が」
口元だけ笑って、葦木場はピアノに背を向ける。その笑いに先程感じた冷たさを再び背に感じた。
あんなに掴み所が無いのに、指先ひとつで明るい色も、死の淵の色も、渦巻く苦しみの色も見せられた。たったの数分で。
ただぼんやりしているだけではないのは、レースを見れば分かるが、その奥には自分にはない特有の感性からくる狂気のようながあるのかもしれない。
(俺、あいつを牽けるんだろうか)
音楽室を去るとき見えたのは、先程の歌にあった箱根山だった。
「で、俺何しに来たんだっけ」
何もかも忘れてしまった。
思い出せるのは、血の色、桜の色、青年の蒼白い顔だけになってしまった。
その奥で、くしゃくしゃとした茶色の髪に半分隠れた目が笑った気がした。
A05『指先ひとつ』の作者は誰でしょう?
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