【H04】透明人間

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高校生になってから女子に話しかけられることが増えた。インターハイが終わってからはなおさらで、今日も終業ベルの後、廊下で数人のクラスメイトに呼び止められてしまった。
だけどそれはほとんどの場合、今泉についての質問であり、そうでない場合は今日みたいに今泉といるときのことだった。
つまり、彼女たちが本当に話しかけたいのはボクじゃあない。だから、先ほど声をかけてきた子達が今泉しか見ていないことだって知っている。これでもボクは空気が読める方なんだ。
「休みの日って何してるの?」
「今度、自転車部に差し入れしてもいい?」
そんな質問をパスするのだってお手のもの。
「この前の週末は新宿のサイクルショップに行ったよ、なあ今泉?」
「自転車競技は体型維持がシビアだからね…、自転車競技部では差し入れは気持ちだけ頂くことにしてるんだ。でも、今泉個人にならいいんじゃないか?」
そんなボクの気配りにも気づかず、今泉が「何の話だ?」なんて首をかしげるだけで、彼女たちは顔を赤らめキャアっと盛り上がる。ので、ボクはまるで透明人間になった気分、っていうのはここだけの話。
「今泉くん、甘いものは好き?」
「今度、家庭科でクッキー作るの」
「今泉くんにもらって欲しいな、いいでしょ?」
ようやく本題に入った彼女たちを前にして、今泉は「なんとかしろ」と言わんばかりの視線を送ってくる。
ここで「そろそろ部活に行くよ」なんて言ったら、彼女たちはボクを「気の利かない奴だ」と噂することだろう。でもね、ボクがそれを言わなければ今泉が言うだけだ。そんなのはきっと彼女たちを少しばかり傷つける。
だからボクはそれを口にして、空気の読めない奴を気取るのだ。
 
 
 
渡り廊下を渡って第二校舎の1階に降りる。今月から冬服になったが、まだ少し暑いので2人ともブレザーは脱いだままだ。部室棟への近道になる裏口のドアを開くとすっかり色づいた桜の葉が舞い込んできた。すました顔で「秋だな」と呟く、その横顔を縁取る西日はまるで後光のようにその輪郭を縁取っている。
インハイが終わってもボクらの日常は変わらない。授業が終われば部室に向かい、それぞれの練習に励むのだ。ただ、3年の先輩方が引退し人数の減った部室は、少しだけ寂しい。
 
今日は今泉や先輩たちと一緒に、峰が山からダムを周回するコースを走ることになっていた。
走り慣れた道ではあるが、ボクにとっては毎度毎度が新鮮にキツい。
先に出発した1年生チームに遅れ始めたところで、背後から先輩たちが追いついてきた。追い風のせいか、手嶋さんが、青八木さんと来年の一年生レースの話をしているのが妙に鮮明に聞こえてくる。「いい1年が入るといいな」そんな言葉も漏れ聞こえてきて、おそらく最後の1枠には1年生を想定しているのだろう、とわかり、思わず軸がブレそうになった。
 
長い長い坂の上、今泉は振り返ることもなく、まっすぐに走っていく。小さくなっていく背中を見つめながら、ボクがあの背中を押すために必要なことについて考え、ボクは足を回した。
 
 
 
部室まで戻ってくる頃にはすでに夕暮れが近づいていた。雪が積もることはほぼない地域だが、それでも12月になれば練習は屋内が主になる。春になるまでに、ボクはこのコースを、皆と一緒に、できれば誰よりも先に、ゴールできるようにならなくてはいけない。
 
部室前でロードのメンテをしていた今泉と合流する形になり、一緒に帰ろう、と声をかけた。
ああ、と頷き足元のバックパックを背負う、その仕草だけで絵になる男だ。
今泉が女の子に人気があるのは当然だと思う。何しろ格好がいいし、インターハイの優勝チームとなった我らが総北高校自転車競技部における次期エースとの呼び声も高い。
だから――そんな彼とお近づきになりたいという彼女たちの気持ちもわかる。ボクだって中学の頃から、今泉に憧れていたからね。
でも、それだけじゃダメなんだ。
「なあ、コンビニに寄らないか?」
背後からそう声をかけると、今泉は小さく頷いてコンビニ方面へと右折した。
パック牛乳と肉まんを1つずつ。真似をしたわけでもないのにお揃いのチョイスになったことに少しばかり笑みが漏れる。コンビニ前のベンチに腰掛けてそれを食べながら、峰が山の麓に暮れていく夕日を眺めた。
「それにしても、今泉の人気、さらに高まったね」
「……それを言うなら小野田だろ」
真顔でそんな風に返す今泉の鈍感さに苦笑する。
彼は入学した時から、総北のアイドルだった。けれど実際のところ、女子たちは彼の本当の魅力を知らないのだ、とも思う。入学してからの7か月を一緒に過ごし、ボクは彼の強いところも弱いところも見てきた。それは彼がボクと同じ人間である証でもあって。
つまり今泉の才能は、彼の努力の上に成り立っている。持って生まれた才能は、そうして磨き続けることでようやく宝となる。
 
ズズ、とパック牛乳を飲み干し、片手で握り潰した。ぷす、と間抜けな音がしたのは無視して立ち上がる。
「もうすぐボクたちも2年だからね」
「ああ」
ゴミを捨て、振り返るとボクらの影が並んで見えた。濃くて長い。背は今泉の方が高いけど、こうしてみるとよく似ているようにも見える。
「強くならなきゃ」
それは自分への言葉だったけれど、今泉は笑うこともなく、ただ頷いた。
たとえ今、女子の前でのボクが透明人間だとしても――この自転車競技部では、透明人間になるつもりなどない。
ボクにはまだできることがある。やらなければならないことが、あるのだ。
 

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