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「すっかり遅くなってしまったな」
部室から最後に出てきた泉田さんが、足元に長く伸びた影を見ながら、ぽつりと呟いた。
「そっスね」
軽い気持ちで同意して、自分の口から出てきた言葉に、コツンと胸を叩かれた。ほんの数日前まで、こんな時間を「遅い」と感じることなんてなかったからだ。日がとっぷりと暮れるまで路上やトレーニングルームでペダルを回し、部室を出る頃には星や月が空に見えていた。寮に戻って、着替えて食事をして風呂に入って、課題をこなして、寝る。それが当たり前だった日々は、近いようでいて、はるかに遠い。
今日みたいにレギュラーメンバーが揃って部室を出るなんてのも、ほとんどなかったことだ。泉田さんと黒田さん、それから葦木場さんは、雑事や相談ごとが色々とあったのだろう、いつも遅くまで部室に残っていたし、銅橋さんはまだ動き足りないとトレーニングルームにこもることが多く、真波さんは――たいてい、いつの間にかいなくなっていた。
カラカラと音がして、その真波さんが白いLOOKを駐輪場から出してきた。黒田さんがぴく、と肩を揺らしたのは、今日がまだ休養日の扱いだからだろう。
はー、と大きく息をついて、黒田さんはお小言をひとつ引っ込め、別の小言を言うことにしたようだった。
「オフは明日までだからな。ちったあ課題進んでのかよ、真波」
「いやあ」
実に呑気な返答に、彼の課題がまったくの白紙であると、この場にいる全員が悟っただろう。はー、というため息は、今度は三人分だった。黒田さんと泉田さんと、銅橋さん。
「……まあ、二年生の量なら、今からでもどうにかなるだろう、ユキ」
「三年の課題量えっぐいよな……おい真波、来年はマジで計画的に進めねえと、部は引退したのに卒業できずに残る羽目になんぞ」
「わぁ、それちょっと楽しそうですねえ」
「楽しくねぇよ! ピーターパンか! 大人になりたくない少年か!!」
「似合うっスね、真波さんにピーターパン」
思わず口を挟んだら、三白眼に睨まれた。はーい、すいやせん。
「ユートは似合わないね-」
黒田さんの攻撃から逃げつつ、真波さんがそんなコメントをポンと投げてきた。まるきりいつもの、何気ない様子で。
ピーターパンが似合わない。
どきりとした。真波さんは怖い人だ。
「悠人。どうした」
泉田さんたちとずいぶん距離が空いてしまっていることに気づいたのは、名を呼ぶ声と、背中に触れてきた大きな手があったからだ。前を歩く彼らとの数メートルの距離に、大小二つの影。オレのと、葦木場さんのと。およそ30センチの身重差が、引き伸ばされて何倍にも見えている。
「悠人?」
とうとう立ち止まったオレの隣で、大きな人の大きな影も、律儀に立ち止まる。
とん、とその場で跳ねてみた。オレの影はひとときオレの足から離れ、それから重力に従って再びオレのつま先に貼りつく。永遠の少年の物語とは異なり、針と糸なんてなくとも、勝手にどこかへ行ったりなどしない。
「あの話の影って、なんで離れちゃうんすかね」
「ピーターパンか?」
「そス」
んん、と唸り、葦木場さんは背をかがめて、オレの顔を覗き込んできた。
「悠人は、ピーターパンが嫌いなのか」
「……えと、なんで」
「そういう顔だ」
指先で眉間を突かれる。ハンドルを握り、ピアノを弾く長い指は強くて、少しばかり痛い。
「……ええ、嫌いっスね」
頷いてオレは足元を見下ろした。
「ずっとガキでいたいとか、バカみたいじゃないすか。だから影にだって逃げられるんすよ。影はちゃんと大人になりたいのに、ワガママ言うから」
「逃げ出したかったのか?」
「――オレは!!」
思わず大きな声が出た。わかってる、バカみたいなのはオレだ。子供向けの本の話でムキになって。けど、
……だって隼人くんには、ピーターパンが似合うじゃないか。
「悠人。そこにあるそれは、オマエの影だ」
静かな声がオレを諭す。そんなの知ってる。知ってるよ。でも。
「こっちが、オレの影。影踏みだと不利だ、長いから」
「はい。……はい?」
「で、」
トン、トン。オレの声はまるきり無視し、ステップを踏むように後退して葦木場さんがオレの背後に立った。うわ、近い。オレが言うのもなんだけど、やたらと近い。彼の爪先がオレの踵に触れるくらいに。
「いま、影は?」
「え」
「これは誰の影だ?」
オレの足元から伸びる――伸びていたはずの影は、葦木場さんの大きな影にすっぽりと覆い隠されていた。心なしか色を濃くしたこれは、一体誰の影になるのだろう。
ふ、とオレの頭の上で、葦木場さんが笑う。
「今頃、こっそり逃げ出してるかもしれないな。見えないだけで」
軽く跳ねてみる。影は動かない。オレの影は、ここにはいないのかもしれない。彼が言うように。
「たぶん、自由になりたいだけなんだ、影は。ずっと同じところにくっついてるのじゃつまらないから」
ぱちぱちと瞬きをする。喉が苦しくて、目の奥が熱かった。この人はどうしていつも、オレのほしい言葉をくれるのだろう。
影という言葉は、光をあらわす言葉でもあるのだと、いつだか国語で習ったっけ。この人がそうだ。オレを自由にしてくれる光。こんな人は初めてだ。
初めてだったのに。
「……葦木場さんも部に残ったらいいんじゃないスかね。課題えっぐいんでしょ。そんで、オレのことずっと影に入れといて下さいよ」
声が震えるのが悔しくて叩いた軽口は、軽口にならずに本音のまんまで、ああ、オレはやっぱりただのガキなのだ。
「バカだな」
オレの後頭部を軽く小突いて、その手で葦木場さんは前を指さした。誘導された視線の先に四人の姿が見える。夕陽を浴びてオレンジに染まる校舎の大きな影の中、四つの影が飲み込まれていく。
「あそこまで行けばいいだけだ」
――ああ、そうか。
優しくて厳しいオレの先輩が笑う。大きな姿を見上げて、オレも笑った。
「じゃあ、あそこまで競争しましょ。よーいドン!」
「あっ、こら! ズルいぞ!」
オレは走る。オレの前でオレの影も走っている。オレに追いつかれまいとするように、――オレを遠くまで連れて行こうとするかのように。
「るっしゃあ! 先着ゥ!」
楽しげに跳ねた影と一緒に、オレは自由を手に入れる。