【A03】影の男

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 俺は影でいい。ずっとそう思っていた。何時からと言われたらそれはスポーツという勝負事の世界に身を置いたその瞬間から、としか答えようがない。
 中学ではバスケットボールをやった。友達がどんどんレイアップで、ダンクで、スリーポイントシュートで得点を決めていく中、俺は「ああいう風にプレイ出来たら」と至極当たり前の欲求を持つことが、出来なかった。
 パスを回すためにはどこにいればいいか、誰をマークすれば仲間が自由に動けるか。そんなことばかり考えていて、そのための技を磨き、結果としてチームでは居心地のいい場所を得ていたと思う。
 けれど、バスケットボールを続けたいとは思えなかった。
 俺は高校三年生だ。もうふた月もすれば引退の身。三年目で終わったバスケと同じように、今跨っているこの自転車も三年で手放すことになるんだろうか。あの時と一緒で、馴染んだチームメイトを失えば「影」の俺は居場所をなくしてしまうんじゃないだろうか。
 
「ペダリングぶれてますよ、山口さん」
 はっと頭を上げた瞬間に重心が崩れた。ローラーの上を転がっていた細いタイヤが暴れだす。ブレーキを握りかけた指をぐっとこらえて、踵を捻った。外れたクリートがガツンと床を踏んで転倒しかけた身体を支え、事なきを得る。縮んだ肝が安堵の溜息と共に元に戻った。
「岸神、おったんなら声かけてくれや……」
「かけましたが、集中していらっしゃるようでしたので」
 御堂筋の―つまり最高な筋肉の―マッサージを終えたばかりなのだろう、しきりに手の平を摩っている後輩が針のような視線を向けてくる。彼が時折見せるその視線が山口は特に苦手だ。いつも山口の痛いところを精確に突き刺してくる。
「一体何に集中してたんですかね、一時間も」
「えっ」
 嫌味よりも先に告げられた時間に驚いた。時計を見上げれば部活の時間はとうに終わっていて、窓の外は初夏を前にした時期にしても暗すぎる。今すぐ飛び出したところで門限破りは免れそうもない。また洗い物が終わらないとぶつくさ言う母の機嫌を取らねばならないのだ。
「すぐ出るさかい、岸神は先に帰ってええよ。悪いな」
「御堂筋さんにお願いされているもので」
 何を、とは後輩は言わなかったが、御堂筋のお願いとはつまり山口にとっては絶対服従の命令であって、従わないとあってはこの狐のような後輩が恐ろしい虎に山口の反抗を耳打ちすることは必然だ。山口の微妙な表情に気付いたのだろう岸神は「マッサージャーですから」と口癖のようなセリフを吐いた。山口なりに曲解すればつまり、雑念を吐き出すまでは帰さない、ということだ。
「……お前も大変やな」
「御堂筋さんのお願いですから」
 確かにマッサージャーは選手の相談役でもあるし、考えていたことだって別に隠すことでもないか、と片付けをしながらつらつらとこぼすことにした。五分ほど話しただろうか、「だから、俺は影でええんや」と念仏のように頭の中で唱えていた言葉を口にしたら、心底不思議そうな顔をして岸神は首を傾げた。
「誰の影になりたいんですか」
 虚を突かれて山口は口ごもった。珍しい後輩の仕草も気になったが、それ以上に自分では考えもしなかった場所を覗きこまれて、そこに返すべき答えがないことに自分でも驚いた。
「実体のない影なんて存在出来ないんですよ」
 後輩は嫌味でも何でもなく、おそらく親切心からざっくりと山口の心を抉っていった。
 
 暗闇にぽつぽつと街灯が道しるべのように光を落としていた。月のない夜で、眩すぎるそのスポットを遠ざけるように山口は暗い場所を求めた。ロードバイクを引いてふらふらと歩きながら山口は後輩に投げかけられた純粋な疑問を噛み締めていた。
 俺は誰の影なんや。
 影でいい、そう思わせてくれるだけの人たちがいたことに初めて気が付いた。バスケ時代は運動神経のいいチームメイトが華麗に跳んだ。山口はコートに張り付いてそれをサポートした。仲間が得点をあげてくれることが喜びだった。高校に上がったらもっとすごい先輩たちがいた。閃光のように早いスプリンター、名前に光とつくだけあって明るく、時に厳しく山口たちを理想のチームへと牽引してくれる部長が確かにいた。彼らが勝てば山口は涙が出るほど嬉しかった。
 確かに山口は「影」だった。
 御堂筋が部を支配するまでは。
 ロードレースはチーム戦、影の功労者が生きるスポーツ。そう信じてきた山口を「一番以外に意味はない」という言葉が何度も何度も削った。 
 ロードレースで勝てるのはたった一人だけ。
 知っている、だからこそその一人を押し上げるために他の人間は犠牲になる。
 エースの勝利が我が身の喜び。そうやって誇れるからこそアシストは身を粉にして献身する。
 彼が両腕を高く掲げれば、同じように快哉を叫ぶ。
 一心同体の存在。
 だから、山口は「影でいい」と思えたのだ。
「けど、あいつは化け物や」
 夜道に本音が転げ落ちた。化け物に影はない。必要ない。その存在を顕現させるための生贄が必要なだけ。インターハイという道にあいつが登るための、俺たちは生贄……。 
 俺はまだ影なのか。
 最悪の問いに否、という心中の返答を聞きたくなくてロードに跨った。岸神は言った。誰の影になりたいのか、と。それは、つまり。
 がむしゃらに走った。家に帰る道とは反対へ向かって。
「嫌や……!」
 難しいことはわからない。自分の気持ちだってこんがらがって訳が分からない。現状を否定したい気持ちだけが確かにある。本気でペダルを回していれば血が巡って、絡まった思考が酸素を取り戻しいくらか明瞭になりつつあった。
 日陰者なんててまっぴら御免や、俺には俺の信念があった。
 俺には俺の理想があった。
 ふつふつと感情の沸き上がる音がした。身の入らなかったローラートレーニングなんかよりも数倍脚にくる踏み込みがふいごのように燻り始めた種火を焚き付ける。
 山口は何度も何度も自問する。
 最後の晴れ舞台となるインターハイのその日まで。
 
 今、俺は誰の影になりたいんや。

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