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冬、受験が終わって無事に進路が決まった。学び舎以上に思い入れの深い部室も新入生のために場所を開けてやらないといけない。木枯らしがとても寒い日だった。
ちゃっかりと鳴子が用意した寄付箱には、青八木のバーテープの予備やうっかり買い足してしまったんだろう補給食の余り、古賀が作ったトレーニングメニューの束やあいつが使っていた理論書が山のように収められている。皆、ぎりぎりまで部室に居座っていた証拠だ。
「離れがたいよなぁ。そりゃあ」
中身が残っているチェーンオイルや未開封のチューブ、消費しきれなかった補給食。全部箱の中に入れた。来年の総北のために俺が出来ることは限りなく少ない。伝えるべきは全て伝えきった。あとはあいつらの時代だ。
「やりきったよ、手嶋純太」
一番大事なものをここに置いて行こうと決めていた。すっかり空っぽになったロッカーの中にそれを託す。後輩の誰かが、ロッカーを開けるまだ見ぬ新入生が受け取ってくれたらいいと思う。
「なーんてロマンチックもそこまでにしようぜ。……俺は、今日で自転車競技を引退する」
ロッカーに向かって真剣な告白なんて馬鹿げてるけど、俺には必要な儀式だった。言葉にしなければまたずるずると未練を引きずってしまいそうだから。
「ヨーロッパに行きたかった。そこで通用するようなすげぇ選手になりたかった。日本で初めて頂点獲る男になれると乗り始めた時は本気で信じてた」
震えが走った。言葉が沁みて痛みを訴える。
強豪千葉総北に所属して、日本ジュニアのレベルを目の当たりにした。思い知った。ここですら一番になれない自分に競技者としての未来はない。世界を望むには器が脆すぎる。抱いた夢だけが煌々と輝いていた。ここに来る奴らなら、あるいは、と。
「俺の夢はここに置いていく。小野田か鳴子か、エリートは本当にそこまで行っちゃいそうだな。うちの誰かが俺の意志を継いで世界に挑むときがきっとくる。その時には俺も協力を惜しまない、どんなことだってするよ、絶対に」
震えは収まらない。競技者から観戦者へその一線を踏み越えて、すっと胸が楽になった。けれど、まだ後頭部が焼け付くように熱い。計り知れない喪失感。
「さようなら、手嶋純太」
ロッカーの扉を閉めて、錠を掛けた。
黄色のジャージを着た俺はロッカーの中で永遠に眠る。
扉を開ける銀色の鍵は、もう俺の手の中にはない。
胸のど真ん中に隙間風が吹いていてたまらなかった。冷え込む芯を温めようとコンビニに立ち寄ったら、そいつは長い腕を振って「純ちゃん」と俺を呼んだ。
俺は大根とつくねと焼き豆腐、葦木場は卵とちくわと餅巾着を行火のように抱えながらイートインスペースに座った。サドルの固さを思いだして少しばかり尻のおさまりが悪い。
「ねぇ純ちゃん、ちくわの穴って妙に味わい深いよね」
「へぇ、ちくわの穴ってどんな味なんだ?一口くれよ」
「ど、どうしよう、ちくわの穴ってどうやってあげたらいいのかな?」
葦木場は変わらない。顔全体で「美味しい」と言いながらちくわをほおばった。俺も出汁を吸って重くなった焼き豆腐を箸で持ち上げる。
「って、お前なんで千葉にいるんだ?」
「ん~、ひんろ決まったから。……んっ、報告」
「連絡入れてくれればいいのに、ケータイは?」
「ケータイなのに携帯してくるの忘れちゃったんだよ」
「なんだそりゃ。そういや大学はどこ行くか聞いてなかったな。福富さんだっけ、明早の自転車競技部に行ったの。そこ?」
「俺、音楽やることにしたよ」
葦木場の顔は穏やかで、満ち足りていて、そこには未練なんて微塵もないような凪いだ感情が宿っていた。
「ピアノやるよ。純ちゃんが褒めてくれたピアノ」
「なんでだよ……」
体格にも恵まれている、実力も高校自転車競技界随一の強豪・箱根学園のエースを務め上げたほど。俺が諦めたプロの世界に爪が掛かる、こいつならきっと日の当たる場所に這い上がれるのに。
「純ちゃん、怒ってる?」
「怒って、……納得できねぇよシキバ」
葦木場は少しだけ驚いたような顔をした。
「純ちゃんはもっと怒ると思ってた」
「……そりゃ怒りたいよ」
「純ちゃん、自転車辞めるの?」
葦木場の目に射止められて俺の息が止まる。
なんでこいつはこういう時にばっかり勘がいい。
葦木場は「そっか」と受け入れるだろう。淡々と、自分には変えられないものとして。
いま、俺たちは変化の節目にいるんだから。
「……俺は」
その一言を恐れている。葦木場は俺が「世界を目指す」と言った時笑わないでいてくれた。「かっこいい、応援する」って言ってくれた。そんな葦木場が頷いてしまったら、世界から競技者としての手嶋純太が消えてしまいそうで、怖い。温かな場所で座っているのに、まるで雪の中で立ち尽くして途方に暮れているみたいに体が震える。
「そんな泣きそうな顔しないで」
葦木場は巾着を破いて、中の餅をつつき始めた。
「俺も選手辞めようと思ったこと、あるよ。純ちゃんには話したことあるよね。……背が高いのは不利だって決めるのは自分なんだって福富さん言ってくれたんだ。上手く走れなかった俺に機材の調整とか今の走り方とか教えてくれたのは新開さんなんだ。でもね、それだけじゃだめなんだ」
刺さる、葦木場の言葉が。
「ねぇ、純ちゃん、自分でロックしちゃった箱はね、自分で開けるしかないんだよ。それに鍵はいつまでもポケットにないんだ。いつの間にかどこかに行って開けられなくなっちゃう。見えないけど、でも入れたのは自分だから中身はわかるでしょ。とても辛いよ、俺は、辛かった」
葦木場は喉を湿すようにおでんの汁を啜った。俺もまだ温かい汁を含んで飲み下した。
「俺知ってるよ、純ちゃんが自転車大好きなの」
そんなの俺の方が知ってるさ。
「世界に行くって夢、諦めきれないなら追いかけようよ。俺は応援するよ」
「……簡単に言うなよ」
「純ちゃん」
葦木場は俺の方に向き直った。いつもは下がり気味の眉が上を向いて、本気なのだと俺に告げる。
「自転車か音楽かで悩んだとき、気付いたよ、夢は期限付きなんだって。インターハイは高校生じゃないと出られない、それと一緒。自転車選手は若いうちじゃないと勝負にならない。音楽も時間との勝負なんだ、極めるには人間の寿命は短すぎる」
葦木場は一度息を吸った。
「八十のおじいちゃんになってから箱を取り出して、鍵を探してももうないんだよ。思い残すことが無いようにって頑張っても目指したところになんて絶対届かないんだよ。だから俺は音楽を選んだ」
「……強いな、シキバ」
「後ろ髪引かれてハゲたら困っちゃうからね」
後頭部を摩りながら笑う葦木場は晴れやかで、これが未練のない男の顔だと俺に思わせた。ガラス越しの薄曇りに映る俺は未練たらたらで情けなく尻尾を垂らした犬みたいな顔をしていた。
ぐいっと汁を飲み干して、勢いよく合掌した。最後に食べた糸こんにゃくが妙に美味しかった。
「なぁシキバ、お前絶対有名なピアニストになれよ」
「なれるかな」
「なってくれなきゃ俺が困る」
「どうして?」
「お前が焚きつけたんだ。二十五まで人生賭ける。それで成果でなかったらお前のマネージャーとして雇ってくれ。年俸は一千万円でいいぞ」
「一千万!?どうしよう俺そんなお金持ってないよ!?」
「有名なピアニストになったら一千万くらいすぐだよ」
笑い合う俺たちに店員がちらりと顔を出したので、すぐにボリュームを下げて、葦木場をつついた。葦木場はまだくすくすと笑っている。
「純ちゃん元気になったね」
「そうか?」
「すっごくご機嫌だよ、歌い出しそうなくらい」
「そうだな、久しぶりに歌いに行くかシキバ!」
「うん!」
明日、今泉から鍵を借りないとな。ロッカーの鍵。
閉じ込めちまった夢をちゃんと拾いに行かないとな。