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いつもの自主練の最中だった。次の登りを今日のラスト一本に決めて、ペダルを踏む脚にぐっと力を籠めた時。街灯に反射して、何かが道の脇でチカリと光ったような気がした。
「……何ショ?」
何故だか妙に気になり、バイクを降りて光を見た辺りにしゃがみ込む。指先で道路の隙間から顔を出している雑草を掻き分けると、それはあった。
「鍵、ショ」
ロッカーキーより少し大きい程度のそれは丸みを帯びていて、丸い根本から伸びた直線部分に小さなギザギザがついている。何の変哲もない、普通の鍵だ。何を開ける鍵なのか、捨てられたのか、はたまた落し物か。裏を返してみるが、手掛かりになるようなものは何もない。
落し物だとしたら交番に届けるのがいい。そう思うのに妙に手放し難くて、オレはそれをそっとジャージのポケットへ落とした。
これがラストと決めていた最後の一本は今日の自主練でのベストタイムをたたき出し、その満足感は鍵を持ち帰る微かな罪悪感をひそりと上塗りしてオレは帰路へ着いた。
今日のすべきことを全て片付け、そろそろ寝ようかという時。勉強机の上に無造作に置いていた鍵がふと目に入り、オレはそれをつまみあげた。最初の印象通り、それはどこぞのロッカーのキーなのかもしれないし、または鍵付きの抽斗にも使えそうだ。女の子が持つような宝石箱にも、これくらいの鍵がついているのかもしれない。
一体それが何を開けるための鍵なのか、考えているうちに思考の波に沈んでいく。小さく冷たい、銀色の鍵。この世界のどこかに、その鍵を受け入れる対の扉があるのだ。鍵を失って、今は閉ざされた扉が。そしてそれは扉ではなく、抽斗や蓋かもしれないが。どれにしても同じだ。鍵がないから、対となるそれらは開かない。中に何が入っているのか、鍵を持たぬ者には誰にもわからない。
頭の中でまだ見ぬ扉の鍵穴に、この鍵を差し込んで回してみる。カチリ。小さな金属音と共に鍵が半分回った。オレはそっと扉に手をかけ押してみる。
何が入っているかわからないと言いながら、オレはどこかで期待していた。そこに秘められたものが、きっと素晴らしいものに違いないと。だが空想に浸るオレが開いた扉の中に見たのは、オレ自身だった。楽しい自転車を、登りを否定されて、必死に足掻いてもがき続けるオレの姿がそこかしこに浮かんでは消えた。
「……ッ」
無意識に強く鍵を握り込み、ギザギザが掌に食い込んで意識が浮上する。空想の中でくらい、自由に山を登っていられたらいいのに。そう思うと、妙に気落ちして溜め息が落ちた。
手を開いて鍵に目をやる。これがもし、オレの押し込めた鬱屈を解放する鍵だとしたら。解放し、自由に、思うまま登れるようになる鍵だとしたら。そうだったらいいと戯れに思う。
鍵を乗せた掌は、いくつもの肉刺ができて固くなっている。その固くなった一つ一つが、オレが登って来た証だった。苦手な自主練を続けるのは何のためだ。誰のためだ。
「オレは、オレのために登るショ」
誰のためでもない、自分自身で自由を勝ち取るために。オレの登りを証明するために。だから、登る。そしてそれは、己の力で果たさねばならないのだ。そうでなければ、鍵を回して解放したところで、そこにはきっと新たな鬱屈が溜まるだけだ。
こいつは、明日交番へ届けよう。そう決めたらどこかスッキリとして、オレはベッドへ潜り込んだ。
だが翌朝、学校へ行く時に鍵も持って出ようと机の上を見ると、昨夜確かに置いた筈の鍵がどこにもない。落ちるような端へは置いていない筈だが、念のために椅子や床の上も探し回るが見当たらなかった。
「やべェ。朝練遅れるショ!」
気付けば出かける時間ギリギリで、やむなく鍵の捜索を諦めてそのまま家を飛び出した。そしてそれ以降、鍵は一向に見つからないまま時は過ぎ、やがてオレは二年になった。
とはいえ忽然と自室の机から消えたあの日以降、しばらくは自主練で同じ坂を通るたびに思い出しもしたが、次第にそれも薄れ、あの小さな鍵の存在はいつしかオレの中から消えていたのだが。
季節は春。その日、奥父山のヒルクライム大会に出向いたオレの肩に、派手にぶつかる男がいた。謝るよりも先に、そいつの口が偉そうに言い放つ。
「総北? 聞かねェな」
「おめェも誰だよ」
カチューシャをつけた無礼な男にすかさず言い返す。やたら突っかかってくるそいつはオレの意識の外にいた。レースが始まるまでは。
オレが見据える先にあるのはゴール、それだけだ。脚に力を籠める。ペダルを回す。オレのやり方で。オレだけの登りで。一人で積み重ねてきた完全自己流、これがオレの世界だ!
一心に登ってオレは勝った。一年前の悔しさにまみれた自分に、己に課した挑戦に、オレは勝ったんだ。だが、常に背後から迫る激しいプレッシャー。今だかつて感じたことのない強烈なその青は、オレの中に消えぬ眩い閃光となって、まざまざとその影を焼き付けていった。
一進一退の攻防を繰り広げるレースの最中、意識はカチューシャとの勝負に静かに燃えているその片隅で、チカリとそれは光ったのだ。その光をどこかで見たと、そう思った。辺りはすっかり闇に沈んで、街灯が部分的に道を照らすあの坂で。灯りを反射して、控え目にチカリと光ってその存在をオレに示したあれは――。
鍵だ。小さな、銀色の鍵。忽然と消えたまま、記憶からも失せて久しいあの鍵が、なぜか今になって脳裏に甦る。それを意識したのは時間にしてほんの一瞬、一呼吸分にも満たない僅かな時間だ。ペダルを緩めることなく襲いくるカチューシャの放つプレッシャーに、余所事に気をとられるなど一瞬でも命とりになる。
だがそうして再度意識の底に埋もれたあの鍵の存在を、今はっきりと胸に感じていた。
「なんで笑わねェ!」
優勝したオレに、そいつは心底悔しそうにグローブを地面に叩きつけ、叫んだ。挙句の果てに、笑顔の練習だ何だと喚くこいつは何なんだ。
ハコガクの、すげぇ登るヤツ。名前は……、東堂、尽八。
変なヤツショ。あんまりウルセェから言われた通り精一杯の笑顔を向けたオレの胸に、先程から感じる鍵のイメージが、まるでそこにあるかのようにはっきりと明確化された。鍵を拾った一年前の夜、空想の中でそうしたように鍵が半分回る。カチリと音がして、扉が開くあのイメージだ。
開かれた扉の中、そこに詰まっていたのは抜けるような青空と草いきれ、ジリジリと照りつける夏の陽だった。焼き付いたかのようにくっきりと路上にある二つの影は濃く、有無を言わせぬ太陽の力強さを感じさせた。二つの影は縺れ合うように山を走り抜けていく。追いつき、抜かれ、交わるように影は重なり、離れながら、頂上を目指してただひたすらに。
あの夜。鍵に閉ざされたその奥にあるものが、きっと素晴らしいものに違いないとオレは思った。あの直感は、決して間違いではなかったのだ。これ程眩くて、素晴らしい光景をオレは知らない。
とうとう何を開ける鍵なのか分からずじまいだったが、ようやく謎が解けた。あの鍵の対となる扉は、このおかしなカチューシャ男だったのだ。自分でもおかしなことを考えている自覚はあったが、そう思うと不思議としっくりとくる。そして目の前でギャーギャー騒ぐこの男と、これから何度も血の沸き立つ勝負をする予感に、痛い程に鼓動が高鳴った。