【C02】しっかり者の君たちへ

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 職員室の引き戸を閉めると、廊下に出る。秋深まる日々、外は既に暗い。
「お待たせ」
 無言で頷いて、昇降口へ向かう廊下を歩くのに合わせる。上履きが床でペタペタと音を立てる以外、物音はしない。
 インターハイで優勝してからも練習メニューは減っていない。寧ろ増やしたから、自転車競技部が帰る頃には殆どの部は活動を終え、生徒の姿もあまりない。
 部室の鍵を職員室に返すのは、部長、つまり主将の仕事だ。先日、鍵の保管場所と共に引き継いだばかりだった。
(まさか俺が引き継ぐとは思わなかったけど……)
 この部では、学年ごとのまとめ役を担うのは一年生レースの勝者と決まっていた。実際、金城はそうだったという。だけど、自分は違う。
 経験者だったから流石に最下位は免れたけれど、峰ヶ山を登りきった後の白線を最初に割ったのは自分の車輪でなかった。
 だから、一年生の時、連絡事項などを先輩たちから最初に伝えられるのは、眼鏡をかけた同級生だった。だが、現在その男は一年以上前に負った怪我を治す最中で、あの夏からただの一度も試合に出ていない。ただいつも穏やかな顔をして部室の隅でメカの整備を続けている。
 そうしている間、自分の才能のなさに時に絶望的な気分になりながら、ずっと練習だけは重ねてきた。そして、隣を歩く男を表彰台に送り込むために日々作戦を練り、行動してきた。
そうして、やはりただの一度も表彰台に上ったことはなかった。
 
「次の主将は、手嶋、お前だ」
「金城さん…俺は…」
「勝ったことがない?確かにそうだが、他に適任者はいない」
 眼鏡の奥の強さを湛えた目は既にその意志が固いことを言葉よりも伝えてきた。
「きみ…古賀は…」
「確かに一年生レースの優勝者が主将になることが通例だ」
「いいじゃねーかよ、手嶋!おめーは頭もキレるし、しっかりしてんだ。勝ってねぇのはこれからやりゃあいい」
 力強い掌が背を叩き、それから豪快な笑い声が響けば言いかけた言葉はそれ以上出てこなかった。
「頼んだぞ」
 
 渡されたのは小さな金属の塊で、だけどそれは実際以上にいつだって重い。
(全部、受け継がないと)
一年後、誰にこれを渡すのかは分からなくなってきた、と苦笑する。
 

 
「寿一、全部終わったか」
「あぁ」
 部室のドアに掛けられた手には、今までずっと持っていた鍵は無い。
「お疲れ」
 寮に戻る前に職員室に寄らなくて良いのは新鮮ですらある。一年間、ずっとそうしてきたから。今日からその役割は、最近ますます逞しくなってきた後輩のものになった。
「泉田ならしっかりやってくれそうだな」
 元より几帳面で律儀な男だ。部長の仕事も難なくこなせるだろう。主将という役割の方は、思い悩んでいる様子もあったが、最近は吹っ切れたようだ。
「ちょっと…重たいモンもあるけどな」
 今年は王座を譲ることになった。それを誇りに思っていた彼にとって、その奪還はきっと重くのしかかるに違いない。
「泉田は、強い」
「…そうだな」
 王座の維持も奪還も、或いはその座を追われることもどれも重責だ。それを誰よりも身を以て味わった男の確信に満ちた言葉は力強い。
「腹減った。行こうぜ、寿一」
 背中をポンと軽く叩くと、まだ明るい部室を背に寮へと向かう。
「鍵とかやってると食堂、いっつも最後だったけどもう一番乗りできるな」
 そうなるとご飯のお代わりし放題だ。いつも残り僅かになったご飯をかき集めてもらっていた。
「引退後は運動量が減る。食べ過ぎるな」
「…気をつけるよ」
 でも今日のメニュー的に大盛り三杯は堅い、そんなことをこっそり考えながら寮の玄関をくぐった。
 

 
 厄介ごとばかりだ、と思わず頭が痛くなる。いつもこうだ。
「これで全部や、ヤマ、ノブ。あとは頼むで」
「ハイ!」
(返事だけはええけど…)
 この数日、そうでなくとも厳しい練習の後、半分眠りの世界に旅立ちそうになりながら二人で部の雑事の諸々を石垣から教えられていた。受験講習後だったり、それが無ければ相変わらず参加している練習後だったりとあちらも疲れている筈なのに、何故か春の頃より元気だ。重圧から解放されたからだろうか。
 そして、これらの雑事は通常は部長だけがすれば良い筈なのだが、石垣は最初から二人で話を聞くようにと告げた。その理由は、間違いなく隣でしょっちゅう舟を漕いでいる新部長だろう。
「で、部室の鍵やけどな…」
 これで本当に最後の引き継ぎだ。勿論部室の鍵の場所や管理の仕方は既に知っているが、それでもこれで正式に管理が引き継がれる。
 そう思った時、背後で部室のドアが開く音がした。
「まァだやっとったの?長すぎやろォ、石垣クゥン」
「御堂筋」
「鍵は僕が貰ういうん、ちゃぁんと水田クンに言うたんやろね?」
「は…?」
呆然とする水田がまた御堂筋を真似ているのかパカリと口を開ける。正直似ていない。
「その調子やとこれからか。当たり前やろォ、僕がいつも最後なんやから」
確かに部の実権を手にしている御堂筋が練習後の別メニューをこなしてから更に記録やら何やらをしているのは知っていた。その頃から鍵の管理は任された、もとい奪ったのだろう。
「ということでや、鍵は御堂筋に任せる。けど、早う帰らせぇよ。今までは俺がちょいちょい声掛けとったけど、無茶しよるから」
「保護者気取りか。キモっ」
「頼むな、ヤマ」
(だからなんで俺なんや…)
 とはいえ、隣でまだ口を開けたままの水田では御堂筋を止めるどころか流石だとか何とか言って終わりなのが目に見えているのも事実だ。だからと言って自分などが止められる相手でもないのだから、結局言いやすい方に押し付けているだけに違いない。
「そしたらこれで全部や。ノブ、お前はもうちょいちゃんと聞き。最初からヤマにも聞かす言うたん正解やったわ。な、御堂筋?」
「べぇつぅにィ…勝手にしたらええ。けど、レースに差し支えるようなコトしたら承知せんよ?」
「だ、大丈夫やで!御堂筋クン!この俺が新主将としてやな…!」
 既に興味を失って記録用紙を覗き込んでいる御堂筋は、今日も自分たちが帰った後もここに残って、それから壁にあるフックに掛かった鍵できちんと施錠するのだろう。
 その点、確かに少なくとも水田より適任だろう、とは思う。余計なことをするのは厭うが、必要なことに関しては誰よりも几帳面だ。部誌を埋める記録の字からも窺い知れる。
「ヤマ、お前なら大丈夫や。しっかりしとるし。頼んだで」
その根拠はどこにあるのだろう、そう思うとこれから一年の先行きがあまりにも憂鬱だ。
 

 
 過去にどんなことがあろうと文句ない実力があれば、この座はやはり目の前でぼんやりしているようにしか見えない男に渡すのが筋だ。確かにそう思ったが、本当に話を聞いているのかどうか怪しい。
「とにかくじゃ、鍵はちゃぁんと掛けとけ。ロード持ってかれたらコトじゃけ」
 机の上の鍵に視線をやりはしたので一応話は通じた筈だ。馬鹿ではない。寧ろ頭は切れる方だ。ただ、まともな会話を望む方が無理というものだということは、この二年間でよく分かっている。
だが、心配することなど何もない。
「優策!先輩の話はちゃんと聞け言うとるじゃろ!」
(ホラな)
「すいません、待宮先輩。ワシがちゃんとやらせますけぇ…ホラ、優策も頭下げるんじゃ!」
「別に庭妻がやってもええんじゃ。ちゃぁんと鍵閉まっとったら」
「あっハイ!」
 隣の井尾谷が頬杖をつきながら溜息を吐く。全て見慣れた光景だ。
 実力主義なのは何も自転車に限らない。出来る奴がやればそれで良いのだ。
「どうせお前ら二人一緒に帰るんじゃ、しっかりしとる方がやりゃあええ」
「あっ…ありがとうございます!」
「礼言うトコかぁ?」
「来年は期待しとるけぇ」
「ハイっ」
 きっと来年はやってくれるだろう。実力だけならば、浦久保は自分に勝るとも劣らなかったのだから。
 

 
 こうして総て、繋がれる。
 しっかり者の、君たちへ。

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