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中学一年生の時だった。
飼育委員が怪我で入院し、代わりに誰かがウサギの世話をするように、そう言われた。
誰も手をあげたがらない。勇気を振り絞って少年は手をあげた。クラスじゅうから一斉に視線を浴びた少年はわずかに怯え、しかし隣の席の【彼】にちらりと視線を向けて、「ボクがやります」と口にした。
その日から、代理の飼育委員は、少年の仕事となった。
難しい仕事ではない。毎日放課後に餌をやって、小屋の中を軽く掃除して、カギを閉めて、それを職員室に返して帰るだけ。
「早く帰ろうぜ」
隣で、【彼】が不平を言った。ふんと鼻を鳴らし、結んだポリ袋の取っ手部分をくるくると指で弄ぶ。
「ごめんね、先に帰ってていいよ」
「嫌だよ、一人で乗ってもつまんねえだろうが。手伝ってやるからさっさと自転車に乗りに行こうぜ」
自転車が一番楽しいんだよ、そう言って、つまらなそうな顔でウサギ小屋を見下ろし、落ちていた落ち葉を拾い上げてポリ袋に入れる。
少年は【彼】の、そんな態度が、少し怖かった。
ある日のことだった。
「ウサギ小屋のウサギがいなくなった。もし見つけたら、すぐに先生に言うように」
そんな朝のあいさつが行われ、少年は顔面蒼白になっていた。
ウサギ小屋のカギをかけるのは自分の仕事だ。もしカギが開いていたのなら、それは自分が原因だということになる。
しかし真面目な少年は、小屋を閉める際に、教師に言われた通り二回カギがかかっていることを確認している。うっかり忘れていたのだろうか。まさか、そんなはずはない。
「それって、泉田くんじゃない?」
誰が言ったのか。その言葉に、クラスがざわついた。教師はなだめたが、言葉がそう簡単に止まるものではない。
「おまえ、ウサギ小屋の当番してただろ?」
身体が強張るのを感じていた。確かに、ウサギ当番であるのは事実だった。
「ちゃんと、昨日は閉めたよ。2回も確認したんだ」
「本当かよ?忘れたんじゃねえの?」
大柄の、クラスでも力のある男子にそう言われたら、大抵の人間は怯んでしまう。それは少年も例外ではない。
違う、忘れていない。はっきり覚えている。あれだけ気を付けていたのだ。カギをかける時にウサギがふんをして土をかけていたのまではっきりと見ていた。
そう言いたいのに、言葉が出ない。否定したらどうなるのだろう、という思いが沸き上がる。ボクじゃない、と呟いた声は、か細いものでしかない。
「忘れたかとかどうでもいいだろ」
そこにすっと、声が被った。【彼】は、「ウサギ見つければいいんだろ、ならオレが見つけてやるよ」とにべもなく言い捨てる。
少年ははっとする。【彼】はいつもそうだった。周囲が思わず怯んで、口をつぐんでしまうような相手にも、真っ正面からものを言う。【彼】の突出した優秀さ故、だろうか。
するとぼちぼちと、周りから『ここで無駄話をしたくない』という意見が出始め、最終的には教師がそれをいさめることで終わった。
昼休み、ウサギを探すことになり、クラスの3分の1が参加した。少年は皆親切だと感謝しきりだったが、【彼】は無言のままウサギを探していた。
やがてウサギは花壇の陰にいるところを学級委員長の女子の手によって見つけられ、昼休み明けには普通に授業が行われた。
少年は、【彼】をちらりと見た。言い出しっぺの【彼】は、終始不機嫌そうな顔で、頬杖をついていた。
☆☆☆
「ってことがあったよね。覚えてる?
ウサ吉の口元にレタスを持って行くと、鼻をひくひく動かしてかじりつく。
動物が取り立てて好きなわけではないが、こうして餌を与えていると、やはり愛着みたいなものは湧いてくる。
「……あー、あったな、そういや。記憶の片隅に封印してたわ」
そう答えて、どこかバツが悪そうにこめかみをカリカリとかく。
「なんでそんな、懐かしい話引っ張り出して来たんだよ」
「いや、数年越しにだけどね、あの事件の犯人を明らかにしたくてね」
【彼】はぷっ、と、おかしそうに吹き出す。
「探偵か、塔一郎。真実はいつも一つってやつか?」
「ああ、新開さんにお借りしていた推理小説の影響かもね?こほん、……明白な事実ほど、誤られやすいものはないものだからね、雪成君」
なんだそりゃ、と【彼】は少年の肩を叩いた。
「なんだかはわかんねえけど、まあいいわ、で、なんなんだよ、名探偵塔一郎様の推理は。真犯人が分かったんだろ?」
「そうだね。ボクも最初はね、不審者が無理やり檻を壊したのではないか、そういう風にも思ったさ」
少年が芝居がかった口調で言うと、【彼】はにやと口元を緩めた。
「でも全部考えすぎだった。小屋は無事だったからね。もっとシンプルなやり方があった」
「それは?」
「職員室に借りに行くことさ。ボクがカギをかけて返した後、先生に頼んでカギを貸してもらえばいい。当番じゃなくても、理由を話せば貸してもらえるはずさ。たとえば、『昨日ウサギ小屋の中で落とし物をした』、とかね」
【彼】は、小さく嘆息する。
「確かにそりゃめちゃくちゃシンプルだが……それじゃ犯人の特定はできねえよ」
「そう。だからこれは、根拠はないんだ。だから推理としては多分破綻している。だけどね、雪成。やっぱりボクは思う」
「―――それでも、ボクじゃないなら、やっぱり君しかいないはずだ。「ウサギ小屋に落とし物をした」なんて理由が通るのは」
目の前の、
は、と小さく、どこか穏やかに、【彼】は笑った。
「……ばれちまったもんは、しょうがねえわ」
「ごめんごめん、本当は、あの時からずっと分かっていたよ。犯人が君だって」
全く、水臭えな、隠してたのかよ。人聞き悪いぜ。
その言葉は、いつもより更に早口で、どこか弾んでいた。
「でもなんで今更?もう時効だって言われても、文句言えねえぞ」
ストレートに疑問をぶつけられ、少年は苦笑する。確かに今となっては、少しおかしい。
少年は、あの時確かに、思っていた。
【彼】に事実をつきつければ、彼が気分を害するのではないか、と。
自転車を好きになってくれて、一緒に走りたがってくれた【彼】が、走ってくれなくなることを、恐れていた。だから、口をつぐんだ。
「……ボクの方こそ、もう時効だと思ってね」
「?なんでお前が時効なんだよ、ミスったのはオレだろ。お前に落ち度ねえだろ」
よくわかんねーな、と【彼】がぼやくのが少しおかしくて、少年は口元を緩ませる。
「雪成こそ、何を探してたの?」
「いや、……まあ、そりゃ秘密でいいだろ、お互い様だ」
「まさか、学校に持ってきちゃいけないものとかじゃなかっただろうね?」
「ちげーよ、んなまずいもんじゃねえよ。回収しときたかっただけだよ。お前相変わらず委員長気質だよな」
そんなことを話していると、時計の音が12時を告げる。【彼】が時計を見上げ口を開く。
「つーか腹減ったな、塔一郎、メシ食いにいかねえ?」
「そうだね、ボクも今日は久々に―――あ、雪成、ストップ」
少年が咄嗟にドアの前に駆け戻る。【彼】は一瞬身を引いたが、すぐに振り向く。
「なんだよ、どうした?忘れ物か?」
「いや、君は閉めた後一回しか確認してないだろ?もう一回ちゃんと閉まったか確認しておかないとね」
はあ、と【彼】が呆れたような声を出す。「お前、カギ一つにまでほんっと真面目だな。んなに真面目で疲れねえか?」
「あれ?雪成も真面目になったんじゃなかったっけ?」
「そりゃあ、そうだが」つっても、と頭をかく。「お前の化けモンみてえな真面目さには勝てねえわさすがに」
「はは、それは褒め言葉だね、雪成」
ドアノブを何度か回す。少し滑るような感覚があれば、それは閉め損ね。もう一度、奥までカギを差し込み、少し押し込むようにして捻る。それを、2回。
それだけは、かかさずやってきた。どんな時でも、それを疑われても、笑われても、少年はそうしてきた。かくして、その罪は今、その下に暴かれたのだ。
「なんで楽しそうなんだよ、ヘンタイか」
この太陽の下、たった一つの真実だけが、二人を照らしていた。
