【A01】王国の鍵

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十一月。マンチェスター。カーディガンだけでは少し肌寒い昼下がり。雨の匂いがした。
巻島が兄から頼まれた買い物を済ませている途中、たまたま立ち寄った土産物屋に『それ』はあった。青銅色の、映画に出てくるようなアンティーク調の鍵。手のひらに乗せると予想通りの重みだ。ほのかにひやりと冷たくて、指を折り込むとすっぽり隠れてしまうほど小さい。
「アクセサリーにするといいわ」と、店主が緑色のリボンをつけてくれた。どうやら贈り物と思われたらしい。誰かに渡すつもりもないが、かといって自分で何かに使うかといえば思いつかない。どうしてこんなものを買ったのか。第一、アンティークなんて趣味じゃない。
店を出ると、灰色の雲の隙間に透き通るような青空が覗いていた。日本で見上げていた頃も、秋の空はきっとこんな色だった。一万キロも離れていても、話す言葉は違っても、空の青さは変わらない。
小さく息を吸い込むと、また雨の匂いがする。晴れているように見えるが、どうやら一雨来そうな気配だ。
路面電車に乗るか迷ったが、駅までそのまま歩くことにした。帰りの列車が出るピカデリー駅はここからそう遠くはない。降り出すまでには着くだろう、と巻島は一歩踏み出す。
日本にいた頃、こんな色の空を「雨だ」と見上げる男がいた。二つ歳下の後輩、小野田だ。
「雨?晴れてるぞ」
巻島がそう尋ねると、少し照れ臭そうに「匂い、しませんか?」と笑った。雨の匂い。言われて巻島も鼻先を空へ向けてみる。生温いような冷たいような空気に触れた気がした。
「あ、でも明日は晴れますよ」
「そんな事までわかんのか?」
えっと、と小野田は僅かにずれた眼鏡を両手で直しながらまた笑う。今度は眉をほんの少し下げて。
「こういう匂いの日は、雨が降るんですけど…次の日は晴れるんです」
「へえー」
「あ!外れる事もあるんですけど!でも割と当たるっていうか、あ、でもそうでもないかも…えっと」
何故か勝手に頭を抱え出す小野田の向こう側に、灰色の雲が流れていくのが見えた。その予報通り、夕方から雨が降り出したが、翌日は突き抜けるような快晴だった。
ピカデリー駅に着き、広い構内を早足で抜けてプラットホームへ向かうと、ちょうど乗る予定の列車が到着していた。赤と黄色の鮮やかなカラーリングの車両。そのまま小走りで飛び乗り、空いている席に座る。やれやれ、と一息ついて腕につけた時計を見る。思ったよりも長居してしまった。マンチェスターはいつ来ても時間の流れ方が他の街と違うような気がする。
走り始めた車両の窓に、雨粒が斜めに張り付いた。予報は的中。細い秋雨が流れる景色を灰色に変えていく。
荷物を足元へ降ろすと、巻島は上着のポケットからあの鍵を取り出して手のひらの上で転がした。紐でも通して首からかけようか。それとも部屋のどこかに飾るか。
見つめながら、何故かまた日本での事を思い出した。正門の前の長い坂。田園の真ん中に伸びる一本道。電信柱の向こうに積み重なる白い雲。道の脇にぽつんと立っている自販機。アスファルトに引かれた白線。
今頃、走り慣れたあの山道には鮮やかな秋が訪れているだろうか。胸いっぱいに吸い込んでゆっくり吐き出すと、手足が風に溶け込むような気持ちがした。あの秋の道を、結局小野田と走ることは無かった。坂を登りながら、色づく紅葉をどんな顔で見つめたろうか。
二時間ほどして列車は目的の駅へ着いた。こちらにも雨足が近づいているようで、空に浮かぶ雲の色が濃い。巻島が兄と暮らすフラットに着く頃にはいよいよ本降りになった。
「やあ、ひどい雨だな」
激しくなる雨音を背にドアの鍵を開けていると、隣室の住人と鉢合わせた。相手もどうやら帰宅したところらしい。
「明日は友達の家でバーベキューなのに、この雨じゃ無理かな」
アメリカからやって来たという隣人は、決して社交的とはいえない巻島にもフレンドリーに声をかけてくる。
何か返事をしようと顔を上げると、上着のポケットからあの鍵がコンクリートの床にコツンと音を立てて落ちた。
「オシャレな鍵だ。どこの鍵だい?」
「…えーと、今日雑貨屋で見つけて買った」
「アンティークが趣味?」
「いや、全然。どうして買ったのか自分でもわからない」
まだたどたどしい英語で巻島が答えると、隣人は落ちた鍵を拾い上げてにっこりと笑う。
「王国の鍵だね」
「王国?」
渡された鍵を握りしめて、思わず聞き返す。
「みんな心の中に自分だけの王国があるんだ。思い出や宝物がたくさんしまってある、小さな王国さ。寂しくなったら握ってごらん。いつでもその鍵が、君を王国へ連れて行ってくれるよ」
「…おとぎ話?」
「祖母から聞いたから、たぶん本当だと思う」
冗談なのか、それとも真面目な話なのか。巻島にはわからない。わからないが、手のひらで転がすと何故か見慣れた景色が胸の中に浮かぶ気がした。
両眼に焼きつく真夏の緑。赤と黄色のジャージ。風の色。雨の匂い。
「大事にするといいよ」
「…ありがとう」
「それじゃ、おやすみ」
ウィンクを一つ飛ばして、隣人は部屋のドアを開けた。巻島もドアの持ち手に手をかけて、ふと隣人へ声をかけた。
「明日は晴れるよ」
「こんなに降ってるのに?」
首を傾げる相手に向かって、巻島は下手くそな笑顔を浮かべてみせる。
「こんな雨の匂いの日は、次の日は晴れるんだってさ」
胸の中に映るのは、突き抜けるような秋の青空と、赤と黄色のジャージ。

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