E08『ペダルを回したその先に』

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 御堂筋翔は幼い時分、一時期黄色を認識することが出来なかった時期がある。
 
 それは、別段脳の異常や、目の異常という訳ではなく、言ってしまえば精神にきたした異常が原因であった。
 いや、精神の異常により脳内が勝手に黄色という色を認識することを放棄してしまったのだから、最早それは脳の異常と言ってしまっても良いのかもしれない。
 
 兎にも角にも、黄色が見えないのだ。物質の輪郭は認識できる。しかし、認識した輪郭の中は無色透明になり、まるでガラスの様に彼の瞳の中には映し出された。だからと言って、格別不便があるわけではなく、映し出された風景の中から元来透明であるはずの物を除き、すっぽりと色が失われている部分が黄色を有した物体なのであると理解してしまえば、黄色なんて色が脳内に存在していなくてもほぼ通常通りの生活を送ることが出来た。
 
 例えば信号機、これは最も簡単な例だ。これに関しては黄色云々以前に信号機という機械の作りを理解していれば、青、黄色、赤と必ず規則正しく並べられているソレの真ん中が、黄色く発光するライトであることは幼稚園児ですら知っている。御堂筋の瞳には透明に発光するライトは、常人の瞳には黄色い光が映し出されているのだと理解するには余りにも容易かった。
 
 反対に多少難題であるとしたら、授業中黒板に書きだされた板書位の物だろうか。何もわざわざカラフルに彩る必要もないのに、黄色のチョークを使用して重要なポイントを主張する担任に、幾度か殺意を覚えたほどである。しかし御堂筋という少年は、終業後気安くノートの貸し借りが出来るような懇意にしている友人など一人もおらず、だからと言って生徒に対して薄気味悪い優しさを向ける担任の話に放課後まで付き合うなんてことは、端から選択肢に入れることさえ嫌悪感を抱いた。頭を悩ませた結果、最終的にはこっそりと両隣の同級生のノートを授業中覗き見ることで、その問題は落ち着く事となった。
 
 そうして御堂筋は幼い頭をフルに活用し、一人試行錯誤を繰り返して、誰に相談するでもなく、目の前に現れた途方もない問題に立ち向かった。元々優れた頭脳を持ち合わせていたことが幸いしたのか、御堂筋の瞳に黄色が映し出されていないことに気が付く人間は一人もいなかった。
 そう、家族でさえも。
 否、仮の家族でさえも。
 仮の家族と言ってもみな優しく、本当の家族の様に接していてくれた。勿論御堂筋は彼らに感謝していたし、愛していた。
 しかし、もしも母が。御堂筋の唯一本当の家族である母が生きていたとしたら、彼女だけは御堂筋の中で起きている問題に気が付いたのではないか、と浅はかにも期待してしまう。
御堂筋の瞳が黄色を映し出さなくなった原因は彼女であるというのに。
 
 初めて御堂筋の瞳が黄色を失ったのは、彼が母の死を受け入れた瞬間だった。うだる暑さの中、五月蠅い位風の揺らぎに踊っていたヒマワリが、そのアイデンティティーを失っていると気が付いた時、『母と共に黄色は死んでしまった』のだと彼は理解した。
 幸せの色、黄色。彼の頭の中で深く結びついたその二つの存在は、彼にとって幸せの象徴の死と共に彼の中で消えてしまったのだ。それならば致し方ない。解決する方法など見つけられる訳もないし、誰に相談したところで憐みの視線を向けられるだけだろう、それ故彼は口を噤むことを選択したのだ。
 
 そうして、半年ほどの時を過ごした。
 そして、御堂筋が失った幸せの象徴を取り戻す瞬間は突然訪れる。
 『小学生の部優勝は御堂筋翔君です!!』
 それは、母が荼毘に付してから初めてのレースだった。
 誰よりも早く、ゴールテープを切るその瞬間。突然耳元で母の声が聞こえた気がした。
 
 「やっぱりあきらはすごいなぁ。嬉しいなぁ、母さんの誇りや。」
 ――なんや、母さんそこにおったんかいな。探したんやで、ホンマ。そこにおるんなら、やっぱりボクは勝ち続けなあかんなぁ。誰よりも早く、ここに、母さんの元に辿り着き続けるから。待っといて。
 
 そのまま全てを出し切って、転げ落ちるようにロードバイクから降りた御堂筋の瞳の中には美しい黄色の世界が広がっていた。幸せの色、黄色。そして、レースの色。全てを出し切った色。
 気を失うように瞳を閉じた御堂筋の隣には、黄色いヒマワリが一輪、彼の優勝を祝うように添えられていた。
 
 御堂筋は今日もペダルを回す。
 ゴールテープの先に待つ美しい黄色に向かって。

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