E06『春は青く』

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 昨日、箱根にも遂に桜の開花宣言が出た。朝晩はまだ寒いけれどようやく自転車に乗りやすい季節がやってきた。箱根の冬は長くて厳しい。まだ冬の名残を感じる朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくり吐き出した。白く色のついたそれは視界を僅かに曇らせて、それからその奥にひょこひょこ揺れる青い触角がこちらへ向かってくるのを捉えた。
「おはようございますー」
「声がでかい、近所迷惑、静かにしろ」
「わあひどいや」
 いつも怒られるからせっかくきちんと元気に挨拶したのに。そう言う声は明るくて、朝は強くないくせに自転車のことになるとこれだけ機嫌がよくなるこの純粋さが、素直に羨ましいとオレは思う。
「あれ、ユートは?」
「さっき叩き起こして洗面所へ放り込んできた。あと5分で来なかったらペナルティ」
「わあ、鬼だ」
 鬼はオレではなく、あの寝坊助の兄貴だ。そんなところまで似なくていいのにあいつは兄貴に似て朝が弱い。今朝も巻き付いた布団を引っぺがし腕を引っ張り廊下を引きずるようにしながら、ああそう言えばこいつの兄貴も毎朝怒鳴られながら廊下を引きずられていたなあなんて思い出して、要らないところまで受け継いでしまった自分にため息が出る。
「お待たせしました…」
「遅い」
「ユートおはよう」
「真波さんおはようございます」
 目をこすりながら欠伸をする寝癖のついた頭をスパン、とはたいてオレは愛車に跨った。
「真波、いつもんとこに荷物置いて来い、おまえは早くチャリ取ってこい」
「はあい」
「ッス」
 ぱたぱたと寮へ駆けていく二人の背を見送って、空を見上げた。まだ白み始めたばかりの空はそれでもすっきりと晴れていて、地平線は朱く染まり始めている。今日もきっと、山頂に着く頃にはすっきりとした青空が拝めるだろう。

 三人での朝練を始めたのは、つい最近のことだ。初めは卒業式の後、心ここにあらずといった様子の真波に、見かねて話を持ち掛けた。オレじゃ相手にならないだろうし断るかと思ったが、予想に反して興味を示した。正直驚いた。追い出しレースの時点でオレが”クライマー”ではなくなっていくことを流石にこいつでも少しは悟っていたはずなのに、即答だった。「黒田さんと、山を登りたいです」なんて、やけに真面目な顔をして言うものだから、つい笑ってしまったのが記憶に新しい。
 自宅生の真波はかなり早い時間に家を出なければならないはずなのに、約束した日には毎回遅刻せず時間通りにやって来た。新学期が始まってからも二人で時々登っていたが、入学後その話を聞きつけたあいつが自らオレのところへやって来た。自分も一緒に登らせてほしい、なんて、兄貴とは正反対の色の目に熱を込めながら。
 そんなわけで、今は三人だ。正直、オレが一番必死だ。三年だっていうプライドもある。自分の中ではクライマーの気持ちは捨てちゃいない。だから三人で朝練した日はくたくたで午前の授業は使い物になんねーけど、それでもやめられない。きっとクライムには中毒性があるのだと思う。いつだってすいすい登っていたあの人もいつだったかそんなことを言っていた。
「今日は同時スタートにすっかァ」
「えー、黒田さん大丈夫なの?」
「無理しない方が良いっすよ、今日の練習も山岳コースでしょ」
「てめーら三年なめてっと痛い目見んぜ」
 もたもたとメットを被りグローブを付ける二人を置いて、思い切りペダルを踏み込んだ。
「あ! ずるい!」
「うっせェ! たまには先輩に花持たせろ!」
「そうはさせません!」
 早朝、夜明け直前の紫色の空に、コンクリートに削れるタイヤの音が鋭く響いた。

 結局、オレは真波に負けた。辛うじて一年坊主には勝った。芝生に倒れ込んで荒い息を整えていると、腹の上に青い塊が飛び込んできた。
「ぐえ」
「今日もオレの勝ちですね!」
「黒田さんがフライングするから負けたんですよ」
「ウッセー、勝ちは勝ちだ」
 ひとしきり先輩二人に負けたことを悔しがったあと、奴は勝敗よりも道端に咲いていた花に興味が移ったようで、スマホを取り出し調べ始めた。クライマーって生き物は何でこうも自由人なのか。
「真波降りろ、重い」
「ねえねえ黒田さん」
「ンだよ」
「ありがとう」
 思わず目を見開けば、困ったように笑った真波がゆっくりとオレの上から退いて、空を見上げた。すっかり夜が明けた空は透き通る水色だ。
「オレね、黒田さんがいるから寂しくなかったよ」
「…おー」
「東堂さんはもちろんだけど卒業した先輩たちのこと、みんな大好きだったからほんとに悲しかったんだけどね、黒田さんがいてくれたから大丈夫だった」
「…そうか」
「うん、だからありがとう」
 どん底まで追い詰められたこいつを救い出したのは東堂さんだけれど、でもこいつがこう言ってくれるのならばオレも爪先くらいは貢献できているのかもしれない。少なくとも、救い上げた後のこいつを、叩きあげて磨き上げて、再びあの熱いコンクリートの上に連れて行くのは、オレの役目だ。
「っし、帰るか」
「空綺麗っすね」
「なんかこんなに晴れた空見てると夏近づいてきたって感じするね」
「いや夏はまだ先ですよ」
 大きく伸びをしていった真波は、呆れたように投げかけられたその言葉を聞いてから、笑って言った。
「すぐ来るよ、ユートももうじきわかる」
 少しだけ成長して先輩になったその表情に、ぞくりと背筋が震えた。

 尊敬する先輩と最後に山を登ったあの日を思い出す。
「黒田、オレは結局真波を成長させることが出来たのか分からんよ」
「何言ってんすか」
「本心だ。クライマーってのは結局自分本位だ。だから、本当の意味であいつを成長させてやるには、お前の方が適任なんだろうとオレはそう思うよ」
 そう言ってオレの頭を掻き交ぜた東堂さんは、笑っていた。
「あいつを、もう一度羽ばたかせてやってくれ。お前も、山は譲るなよ」
 あの時のオレの返事は人生で一番大きくて、弾んだ声だった。すごい人だった。だからこそ、受け継いで、超えていきたいと思う。

「ああそうだ黒田さんこないだ荒北さんからメールが来て」
「は? なにお前連絡取ってんの!? オレにはメールなんか…」
「あの人恥ずかしがり屋だからきっと黒田さんに直接言うの恥ずかしいんですよ」
 恥ずかしがり屋、なんて言われたら激昂するだろうなあと思いながらも続きを促せば、青い空を背景に真波がにっこりと笑った。
「世話焼かせ過ぎんなよ、あいつそろそろ胃に穴開くからって言われました」
 がっくりと項垂れる。ああ、全くもってその通り。なんでオレ苦労すんの分かってんのにクライマーのお守りやってんだろ。
「最近オレ“イイ子チャン”、ですよね? どうです?」
 それでもこうやって満面の笑顔を向けてくれるから、オレは今日もつい甘やかしてしまうのだ。
「あー…ハイハイ、いい子」
「やった!」
 青い目も赤い目も、朱い空も白い息も、透き通った水色も。全部あの蜃気楼と真っ赤な太陽で彩られた黒い地面に繋がっている。今年こそ、このジャージを歓声に満ちたあのゲートに叩き込むために。たった15センチだけ地面より高いあの場所に並べるために。目に眩しい青と白を身に纏ってオレたちは走る。
「次は負けませんから」
「ハイハイ」
「ユートは早くオレに追いついてね」
「だって真波さん速すぎ…」

 のんびり坂を下る三人分の声は、まだ静かな山に響き渡り、高く青い空へと昇って行った。

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