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ら、ら、ら。
箱根の山を抜ける風は、薄桃色のホ長調。ジャージの隙間から入りこむと、ふわりと羽根のように膨らんで抜けていく。それだけで気持ちが上に向いていく気がする。頭の中で鳴り止まないアレグロ。いつもはピアノ曲ばかりだけど、今日はヴァイオリンの音色。
ペダルを踏み込む足は軽やかで、まるでステップを重ねているような気分になる。ダンスなんて、中学生のとき体育の授業でやった程度だけど。あの頃はまだ女子の手を取って踊れた。今はどうだろう。背中をうんと曲げなければいけないだろうか。でも今なら、自転車の上なら、一人でだって踊れる。誰より上手く、誰より強く。
空を彩る青、流れる白い雲はト長調。左右に揺れれば、胸の中に響くラルゴ。ハンドルを握っていた指が思わず跳ねた。視界の端をかすめた花の名前は知らないけれど、きっと同じように新しい季節の訪れを喜んでいる。
なんといっても春だ。ああ、春が来たのだ。
レコードのようにホイールが回る。次に踏み込むこの音はヴィヴァーチェ。弾む音色はきっと水色。
「飛ばし過ぎだ」
近づく声に振り返れば、眉をしかめたチームメイトに背中を叩かれた。この音は何色だろう。まるで魚が跳ねたみたいな音だ。
「ごめんユキちゃん。だって嬉しくて」
「何が」
「春が!」
両腕を広げれば、温かな空気が肌の上を流れていく。ああ、カンタービレ!
「あっぶねえな!」
「ごめんごめん!」
鳥のさえずりは緑色。花の香りは黄色。春は世界中に色がつく。長い長い冬を終えて、この体は春へ飛び出した。そしてこれからその先の夏へ向かう。もっと速く。もっと強く。アレグロ。フォルティッシモ。
「だから飛ばし過ぎなんだよ!バカ!」
また怒鳴られてしまったけど、だって止まらないんだ。鳴り止まないんだ。
「だって春が来たから!」
「意味わかんねえよ!」
もうすぐ最初の坂道が終わる。ここからは緩やかな下り坂だ。顔を上げれば、見渡す尾根の向こう側で、鈍色の雲からキラキラと稲妻が弾け飛んでいるのが見えた。そして聞こえてくる低い雷鳴。きっとこの音にも、春はふさわしい色をつけてくれる。
瞬きする暇も無い。速く。もっと前へ。
なんといっても春なのだから!
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