D01『モノクロの悪夢』

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 あんなにたくさん涙が出たのに、眼球にこびりついた悪夢はちっとも落ちてくれやしなくって、いっそ目玉ごと洗ってやろうかと姿見の前に立ったことがある。
「何してるのよ、山岳?」
 ベランダ越しに掛けられた委員長の声が引き戻してくれなかったら、きっと今頃。
「なんで勝てなかったんだろう」
 じわり、と、答えの代わりに熱い水が込み上げた。無意味に撫でまわしていた熊の腹に、真波はたまらず顔を埋めた。
 締め切られた部屋は空気までもが死んだように淀んでいた。真波の吐きだした溜息がもう一度肺に戻ってきているのか。酸欠の魚みたいにびくりびくりと背中と腹が収縮を繰り返す。
 白線を越えてからずっとこうだ、涙の栓が抜けちゃったみたいに。
「坂道くんなんか、助けなきゃよかった……」
 言わずにはおれなかった。抱え込んだ熊は何も言わないで受け止める。
 誰にも言えない汚い色を塗りたくられて、だからきっと部屋にある何よりもずっとずっと古ぼけてみえるんだ。真波が自転車に乗る以前から、柔らかな綿のクッションはカビの生えた泣き言に染められてきた。普段なら少し吐き出せば簡単に収まるはずの水が、いまや真波の意思では止めようもなく溢れ出て、熊に着せたエプロン代わりのフェルト地をとぽとぽと濡らしてゆく。
「約束なんてしなきゃよかった……」
 灰色の道に横一閃の白。その手前で隣に並んでいられたら、勝利を競っていられたら。
 山神と呼ばれる先達のように。ほんの少しの憧れがあった。ライバルという存在に、彼ならなってくれるんじゃないかと言う青い期待。
 返して、そのボトル、君が勝ったら。
「勝たなきゃいけなかったんだ、俺たちは、王者なんだから」
 負けて初めて、このジャージを着て走る責任を知った。
 そんなの、今更気付いたって遅いんだ。
 無邪気過ぎる希望が償い切れない未来を連れてくると知っていたら、きっとあんなこと言わなかった。
 まだ誰にも踏まれたことのない新雪を、俺は、俺たちは誰よりも先に踏むことを求めていた。それが義務ともいうべき当然の事象だった。そのために俺は「選ばれた」のに、「楽しい」だなんて思っていちゃいけなかったのに、命を削るような戦いの過程をこそ求めて、俺は「生きている」と実感したがっていた。
 何処までも自分本位なまま。
「坂道くん……」
 教えてやりたい、笑って走る彼にあの屈辱を。
 興奮の果てに襲い来る震えの走るような絶望を。
 灰色の先に眩しく輝いていたはずの白、視界の端でそれはほんの少し黒く欠けた。
 何度もフラッシュバックする。忘れることを許されない夏。
 箱根学園の栄光に落ちた、一点の滲み。
 永遠に背負い続けるだろう二番手の称号。
 真波のせいで箱学史上最強と謳われたメンバー全員が後ろ指を指されている。
 卒業してゆく先輩たちに降り注ぐだろう侮りの視線を思うと胸が痛んだ。叫びたい、この人たちの敗北じゃないんだと。全ては真波山岳の甘さに責があるのだと。
「走りたい……」
 汚名を雪ぐことを科された脚はなんて重たいんだろう。
 それでも進まなきゃ、俺たちは王者なんだから。
「……苦しい」
 熊から顔を上げると、頬がすうっと冷えてゆく。心まで冷えてゆく。涙の感触が消えるころには冷静さが戻って来る。
 ベッドの足元には、白いフレームがぼんやりと光っていた。
「リベンジだね」
 復讐の響きが薄暗い部屋に産み落とされた。陰鬱とした影の世界で真波は胸元を掻いた。
 あの日まで、世界はあんなにも生き生きと輝いていたのに。灰色の世界はもううんざりだ。
「取り戻さなきゃ、俺が」
 もう一度、世界に色を。

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