C08『赤が好きな待宮でも、それには少し抵抗がある。』

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 カフェテリア、気取った横文字で呼ばれている食堂の片隅で、荒北靖友の意識は朦朧としていた。
 大学を卒業した社会人のおよそ9割以上の人間が、もっとも遊べる二ヶ月だと賞賛してやまない大学生の春休み真っ只中である。付け加えるなら、就活に勤しむ三年時やこれまでの学業に終わりを告げる四年時とはまた違う、ただ二年進級を目前にしただけの身も心も軽やかな春休みだ。
 そんな休みを休みでなくしているのは、今現在虚ろな表情でその場に佇む荒北本人の第二外国語の成績にある。一月に行われた後期試験の結果はギリギリアウト、二年生での再履修か春休み補講の選択を迫られた。来年も同じ苦しみを味わうことは避けたと荒北は春休みでの補講を願い出て、その結果、山のような課題を本日15時までに提出しなければならない事態に陥っている。
 そもそも、二月上旬から始まった春休みの後半に補講授業を持ってくるのは間違っているのではないか、さっさと終わらせてしまえば学生も休みを謳歌できるはずだ。講師の都合云々は知ったことではない。けれどそれが優先されていることと、その講師の考え一つで単位の修得が左右されることは知っているからもう何も言うまい。残り数問を解いて自己採点して提出すれば終わりなのだ。年度末から年度初めにかけて、自主練習という名の休業期間を設けている洋南大学自転車競技部。故に本日は明け方までしこたま飲んでの今この時間、家だと寝落ちる可能性が高すぎてここへ来た。
 
「終わったんか」
 突然、頭上から声がする。こちらへ近づく足音にも、陽を遮る影にも気づかなかった。赤茶色の髪が揺れ、同色の眉毛が頼りなく垂れ下がっている。
「……もうちょい。お前はァ?」
「出してきたけぇ」
「ハァッ!? マジかよ」
「ゆうたじゃろ、人おらん方が集中出来るんじゃ」
 あーたいぎい、対面の椅子を引き腰を下ろしたのは同じく第二外国語補講組の待宮栄吉だった。陣中見舞いのつもりだろうか、購買でよく見かける菓子パンと惣菜パンがテーブルの上に置かれる。
「そっち採点しててくんナァイ?」
「せんわ」
「もう時間ねぇんだって」
「金城来るけぇ金城にしてもらえぇや」
「クッソ、フラ語なんか取るんじゃなかったゼ」
 フラ語、フランス語。フランス語なんか取っていても、ツール・ド・フランスの中継を見ていて聞こえてくる解説やコメントは英語ばかりだった。そういうものだと冷静に考えれば分かりそうなものだが、昨年の四月はそれが一番だと思ったのだから仕方がない。目の前の男も同じような思考のもと第二外国語にフランス語を履修したが、今となっては後悔しているのだろう。いつもならキチッとキメられている髪の毛は、今日はもうよれよれだ。それでも自分のペンケースから取り出した三色ボールペンを走らせるその姿は、今の荒北にとって親友と言わしめても不都合がないほど優しい人間に見えた。
「だいたい金城がいけんわ。アイツがフラ語取ったらワシらも楽勝じゃったろ」
「ソレな」
「チャイ語で? チャイ語。裏切りもんじゃ」
「おれは今からのニーズは中国にあると思っているからな。それに、前評判ではアジア圏の語学の方が比較的単位が取り易いと聞いたぞ」
 やはり今日は疲れている。待宮だけでなく金城の気配にも気づけなかった。現れた金城に対し、荒北は今し方押し付けようとした仕事を既に待宮が担っていることから、ただ視線を向けてため息づく。
「出やがったな裏切りモンがァ」
「まぁそう言うな。フランス語もフランスに旅行すれば役立つときが来る」
「ほじゃったら卒業旅行フランスじゃな」
「ツール・ド・フランス夏だろ」
「三、四年の夏は厳しいな。行くとしたら今年か」
「今年行けっかヨ。ジュマペールヤストモしか言えねェぞ」
「ワシもじゃ。ジュマペールエイキチ」
「ジュ ヴィアン デュ ジャポンだけでも覚えておいた方がいいんじゃないか」
「ジュマペールエイキチ、ジュびアンでゅジャポン」
「意味分かってねェくせに」
「ワシは日本人じゃあゆうやつじゃろ」
「惜しいな。日本から来ました、が正解だ」
「ワレぁほんまインテリ坊主じゃのお」
「ウッシ、終わったァ!待宮ペン貸せ」
 高校時代学生寮で生活していた三年間が、荒北のこういう、騒々しい中での方が課題が捗るという特異な面を形成した。待宮から奪ったペン、予め解説の書かれたプリントに目を通しながらの自己採点。やれやれとその様子を見る金城の視線は、最近始めた家庭教師のアルバイトで中学生に向けるそれと酷似している。待宮はと言えば、数時間前にアパートの自室で奮闘していた己の姿にそれを重ねた。
「あと15分」
「わァってンヨ」
 白地に黒の回答、そこに歪な赤い丸が増える。ある程度の不正解には簡単な単語を書き加え、一文丸ごと間違えている仏文なんかはもうバツ印だけ記入して、誠に勝手ながらあのフランス人講師なら大目に見てくれるかもしれないと甘っちょろい予想をしつつ一通りの自己採点を終える。三色ボールペンの赤を黒に変えて、名前と学籍番号を書けばそれで全てが───、
 
 
 Yasutom
 
 
「ああああああ!!!!!?????」
「名前は黒で書くものだぞ」
「赤で名前書くなぁ言われんかったんかワレ」
「テッメェ待宮ァア!!」
 間違いなくノックを変えて違う色を出したつもりだった。この際赤でなければ青でも黒でもどっちでもいいとは思っていた。そう、赤でなければ。途中まで書いたローマ字の名前は紛うことなき赤に染められている。
「ナンでこんなモン持ってんダヨ! クソカープ芸人がァッ!」
「エエッ!? 人様に散々手伝わせよってなんじゃその言い草ァ! ワレが勝手にワシの “三色ボールペン(赤)(赤)(赤)” つこーたんじゃろうが!」
 荒北が待宮に投げつけた三色ボールペン、件の説明通り三色とも赤色をしたご贔屓球団の売れ筋グッズだ。
「こんなもんグッズで出してんじゃねェヨ! 全部同じじゃねーか!」
「いやいやそれがのお、見てみんさい、全部太さ違うんで?」
「あ? ……おぉ、マジかよ、ってそうじゃねええ!!」
 昨日、荒北靖友は20歳を迎えた。明け方までしこたま飲んでいた理由は同じ部内の人間が誕生日を祝ってくれたからである。もちろん待宮も金城もその場にいて、だからそう、待宮も荒北同様本日一切の睡眠を取らず課題に取り組み、この時間なのだ。ランナーズハイ、もとい、スリープレスハイ。二人とも眠気の向こう側を生きている。
 言葉の応酬を続ける二人を横目に、金城は途中まで書かれた荒北の赤いローマ字名に黒いペンで二重線を引いておいた。氏名は赤ペンで書いてはいけないと誰に教わったわけでもないが、昔から抵抗を感じるのはなぜだろうか。それなりの理由があるのだろうが、深く考えたことはない。しかし例えば、それが日本人独特の考えなのだとしたら、フランス人講師は赤で書かれようと黒で書かれようと氏名の色になんて然程重きを置かないのではないか。
 考え倦ねて答えが出るようなものではないなと、荒北が数秒で名前を書き直し、ここから走って特別棟にあるフランス人講師の教務室へ到着する時間をぼんやりと推し測る。
 
「つけヒゲに比べたら何倍も使い道のあるグッズじゃろうがっ!!」
 
「ポンセのことナメてんじゃねェぞテメェ!!」
 
 カフェテリアに掲げられている小洒落た時計の、あの秒針一周分くらいの余裕はまだあるだろう。スリープレスハイに陥った二人の掛け合いに肩を竦めた金城は、すぐそこに放られている焼きそばパンにゆっくりと手を伸ばした。

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