C04『カラーマネジメント・イン・ザ・メモリー』

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 ロンドンだというのに、朝から気持ちよく晴れていた。おかげで、久々に予定のない休日をどう過ごそうか、巻島の心はすぐに決まってしまった。
「外行ってくるショ」
「おー、行っておいで」
 遅く起きてきた兄に声をかければ、眠たげに手を振られた。昨日、大きな仕事がひとつ片付いたばかりである。どれだけ忙しかったか、微力ながら手伝った巻島もよく知っていた。外出ついでに甘いものでも買ってこようか考えながら、ペーパーバックと財布をコートのポケットに突っ込み、フラットを出た。
 寒さの残る、三月下旬。街ゆく人の装いも、モノトーンやベージュ、ネイビーにカーキといった落ち着いた色合いが多い。バッグや靴に明るい色が使われているのを見かけるのが、かろうじて春らしい。明日からサマータイムだなんてジョークのようだと巻島は思う。もっとも、二月半ばに今年の秋冬物のファッションウィークが開催されたことに比べれば、かわいい差にも思えた。ファッション業界はいつでも、先取りの仕方が大胆だ。
 目的地へ向かいがてら、広大な芝生のある公園を抜けていく。日差しの下、花壇に咲き誇るチューリップなどが目に華やかだった。更には常緑樹に紛れて桜の木が一本あるのを見つけた。ロンドンにも桜はある、とは聞き知っていたが、満開のそれを見るのは初めてだった。淡い色がたっぷりと広がっているのを眩しく見つめ、また歩き出す。
 表通りのコーヒーチェーン店でカフェオレとクロワッサン、土産のフルーツタルトを購入して向かったのは、美術館の正面にある広場だった。通り抜けた公園と違いコンクリート造りで、緑は申し訳程度にしかないが、大きな噴水が二つ、イギリスらしく左右対称に並んでいるこの広場が好きだった。
 観光客にも人気があり、様々な肌の色と言語で賑わう中、ベンチに腰かけてクロワッサンを頬張った。焼き立てとはいかないが、温め直されているため充分香ばしく、さっくりとしている。多少の寒さも、カフェオレを口に含めばほっと紛れる。雲ひとつない空が、水飛沫の音が、心地いい。天気のいい時にゆったりと外でとる食事ほど贅沢なものはないと、巻島は思う。
 味わって食べ終えると、ペーパーバックを取り出して開いた。日本人作家の小説が英訳されたそれは、大学の友人が『日本人なのに原文を読んでいないなんて信じられない』と貸してくれたものだ。彼も留学生で、英語の勉強のために読んだところ、酷く気に入ったらしい。『イースターホリデーの間に読んで、休暇明けには感想を聞かせて』と言われていた。
 素直に読み始めてはいるが、グラビア鑑賞以外に読書の習慣があるわけではない巻島には、どうやって面白さを見つければいいのかというところからして難しい。それでも放り投げずにいるのは、確かに勉強になるという実感があったからであり、また友人の気兼ねない距離感が嬉しかったからである。
 渡英前、黄色人種に対する軽視や蔑視をある程度、覚悟していた。実際に来てみれば、思ったような差別はほとんど受けなかった。ただ、親しくなった友人たちは口を揃えて『純粋な日本人だとは思わなかった』と言う。細長い手足、緑色の長髪、自分を貫くファッションがそうさせたことは想像に難くない。日本人らしく見えていた場合どうなったか分からない以上、よかったと軽率に言えるものではないが、巻島個人の環境に限れば、個性が幸いしていた。
 ロンドンに来て半年強。相変わらず、付き合い下手だ。言語の壁で拍車がかかってすらいる。それを巻島らしさと捉え、配慮しながらも気楽に接してくれる友人たちに、自分は恵まれていると思うのだ。高校時代、部活仲間に恵まれたのと、おそらく同じぐらいに。
 片手にカフェオレ、片手にペーパーバックを持ち、友人曰く『人生観が変わった』との物語を読み解く。分からない単語は飛ばし、大きく意味をつかんでいく。地震を題材にした短編集らしい。日本人には身近だが、世界には地震のほとんどない国もあると聞く。友人の出身国には、はたして地震があるのか。時折思考を脱線させながらも、没入していっていた時だった。
「いいじゃん、行ってみなよ」
 不意に聞き慣れた言語が飛び込んできた。視線をやると、巻島と年の近そうな女性二人組が「まじで? まじで行くの? えっ行くよ?」「だから行きなって。大丈夫、大丈夫」と黄色い声を上げていた。観光客が多い場所では日本語が聞こえてくることも珍しくないが、やけにはしゃいでいるせいで耳についた。
 そのうちのひとり、背中を押されていた方の女性と目が合った。あまりに真っ直ぐに見られてたじろいだが、続いて一大決心をした様子で足早に歩み寄ってこられ、何事か分からず本気で逃げようかと腰が浮いた。
「えーと、エクスキューズミー、クッドュープリーズ、テイカピクチュアオブアス?」
「あー……OK」
 女性が真剣な面持ちで口にした言葉に、巻島は中腰のまま脱力した。なるほどそういう、と。
「センキュー!  通じた! よかったぁ」
「案外行けるもんでしょ」
 再度はしゃぎだす女性と、したり顔で頷いている連れの女性だが、巻島はれっきとした日本人である。カタカナ染みた英語を聞き取るのは、イギリス人より得意だ。カメラを差し出して「ディスボタン」と身振り手振りする女性へ、日本語で構わないとも今更言えず、「OK」と受け取った。
 美術館正面にそびえる塔のモニュメントをバックに、二人は噴水と噴水の間に立った。巻島が何か言う前から、ポーズをとって楽しそうに笑顔を振りまいている。単なる掛け声だとしても、笑って、と言うのが得意ではない巻島にはありがたいことだった。
「Say, Cheese.」
 シャッターを押す。女性二人の全身をフレーム内に収めながら、空を大きく切り取ったのは巻島の趣味だ。カメラを渡して確認を求めれば、「オーケーオーケー! センキュー!」と満足げに礼を述べられた。返す笑顔がぎこちないのは、性分なので許してほしいと思う。
「晴れててよかったよね」
「ほんとそれー、空きれーい」
「ていうか今の人すごかった、なんかこう、センスが」
「あ、それは思った。さすが外国だよねぇ」
「ね。正直あれの良さはわからん」
 立ち去り際、二人は悪気もなさそうに零していった。クハ、と密やかに笑う。昔なら、多少なりとも傷ついていたかもしれなかった。けれど今はもう。
 突っ立ったまま、空を見上げる。曇りの多いロンドンで、これだけ天気のいい写真を残せた彼女たちは幸運だ。だが帰国してしばらく経てば、「もっと明るくなかったっけ」と写真と記憶を比べて首を傾げるはずだった。それはカメラの性能のせいでも、巻島の腕のせいでもない。
 記憶色、という言葉がある。現実の色より、人がイメージする色の方が、明度も彩度も高い、鮮やかなものになる。空は青く、リンゴは赤く、木々は緑に。ファッション業界では色についての理解は不可欠であるため、そうした知識が日々増えていく。
 記憶の方が鮮やかだという知識は、巻島の感覚にすんなり馴染んだ。心当たりがあったからだ。――どんなに晴れた空を見ても、あれには敵わないと思い返す。巻島にとって、最も鮮やかな青空の記憶。最後のインターハイ。無二のライバルと競った、最高のチームメイトたちと駆けた、あの夏の空。
「……午後は走るかァ」
 一日ゆっくりしようという計画は、早くも立て直しになった。大学は数日前から長期休暇だが、兄の仕事を手伝ったり家事を請け負ったりしていたため、しばらく走れていない。思い至ればどうしようもなく落ち着かず、むず痒さに口許が歪んだ。
 ロンドンなのだから、いつ天気が崩れてもおかしくない。だというのに、久々に予定のない休日をどう過ごそうか、巻島の心はすっかり決まってしまったのだった。

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