C03『苦手な、先輩』

  • 縦書き
  • aA
  • aA

入学前のインハイも見に行ったが、当時は平坦を中心に観戦していたため、俺が巻島さんのことを認識したのは入学してからのことになる。
第一印象は「すごい髪の先輩」で、その色も長さも、とても真剣にロードに取り組んでいるようには思えなかった。
第二印象は「すごい走り方の先輩」で、あのスパイダークライムを間近に見ることができたのはほんの一瞬、あっという間に置いて行かれた。
小野田との出会いにしてもそうだが、初対面で舐めてかかっていた相手の意外な一面を知るという経験は、それまで自分がいた世界の狭さを思い知らせる出来事として、長く印象に残るものだ。
 
中でも巻島さんは、俺の理解の範疇を超えた存在であり続けた。
不真面目かと思えば真面目で、大胆かと思えば気が小さい。
同じクライマーである小野田には比較的気を許していたようだが、俺や鳴子に対しては廊下などで出くわすたび、びくりと肩を揺らして、「よ、ヨォ…」なんてぎこちなく笑ってみせる。最初は嫌われているのかと思ったが、練習ではあれこれとアドバイスをくれるので、きっと自転車から降りると人見知りになるタイプなのだろう。
 
いつだったか、部室で鳴子が「巻島さんて、いつ髪染めたんスか」と声をかけたことがあった。
緑と赤と黄色(青八木先輩のことだろう)がいるんだから、ピンクと青を揃えて総北戦隊を作ろうなんてバカ話をしていたときのことだ。
 
「あー、高校入学前ショ」
「高校デビューってやつっスね! ずっと緑なんすか? なんでその色に?」
「あー」
「あ、僕も知りたいですっ!」
その頃にはすっかり巻島さんに心酔していた小野田も目をキラキラさせて詰め寄った。
「春だったんショ」
巻島さんはそう言って、またあのぎこちない笑みを浮かべた。
「へぇ~そうなんや、って、それだけっすか巻島さん!」
「くは、それ以上のことがあるかよ」
そう言って肩をすくめて、照れくさそうに頬を掻いた。
 
後輩の質問に対して適当に誤魔化すような人ではないとは思うが、その時俺は、自分の質問でもないのに、なんとなく誤魔化されたような気がしていた。
 
そんな風に、巻島さんとの会話はいつもつかみどころがなかった。
先輩でも、金城さんや古賀さんの指示は的確だし、田所さんは思ったことをすぐ口にするので判りやすい。手嶋さんは空気を読むタイプだし、青八木さんは一見とっつきにくいが、口数が少ないだけで、考え方はシンプルだ。
巻島さんだけが、意思の疎通をはかりづらく、それでいて偉大なクライマーという、俺にとってはずっと「判断保留」の枠に居る人だった。
だから去年のインハイ後、あの急な留学話を聞いて、俺はやはり、巻島さんのことが苦手だ――と思ったのだ。
 
 
 
 
 
卒業式の後、金城さん田所さんを囲んで写真を撮り、巻島さんに送ろうという話になった。
こういう話を提案して人を集めるのは、大抵が手嶋さんや鳴子で、今回は手嶋さんだった。部室の飾り付けや、軽食の用意など、次期主将だというのに率先して忙しく動き回っている。
俺はといえば、手渡された色紙に何とメッセージを書いていいのかわからず、ペンを持ったまま残された空きスペースを眺めていた。お世話になりました――という気持ちは文字にすると少なすぎる。
すでに書き終えられた他の部員たちのメッセージはどれも目を惹き、文字に心がこもっているように感じられた。「卒業してもずっと俺の先輩です」なんてセリフ、俺には到底書けそうにない。
そうこうしているうちに先輩たちが部室に到着したので、俺は慌ててメッセージを書き終え、プレゼント用の袋にしまった。今泉、と書いた下の、余白が気になった。
 
金城さんに出会い、その背中を追いかけて、俺もあんな人になりたいと思った。
ただ、来年は手嶋さんが選ばれたことを考えると、きっと主将にはコミュニケーションを得意とするものが向いているのだろうし、だから俺たちの代には鳴子が選ばれるのかもしれない、と俺は思う。でもいい、俺は総北高校のエースなのだから。
そこまで考えて ――自分はコミュニケーションに自信がないのだろうか? と自問する。
 
「おーい今泉、もっと笑えよ!」
「こんな時までスカシとんのかいなスカシ」
「うるさい」
自分なりに満面の笑みを浮かべたはずの写真を覗き込むと、それはほとんど真顔だった。
「巻島さんも笑ってくださいっていうと笑えない人でしたよね」
しみじみと寒咲が言い、話題が卒業アルバムに載せた写真のことに移る。通常はアルバム用に部員の写真を撮りおろすところ、自転車競技部の写真は巻島さんも写っているものにして欲しい、と金城さんがアルバム委員に掛け合い、さらにピエール先生も後押ししてくれたことで、インハイ後の集合写真が使われたのだという。
「まともに笑ってる写真はあれくらいだったし、ちょうどよかっただろ」
そう言って笑う田所さんの隣で、手嶋さんはすでに先ほどの集合写真を加工し始めていた。
「それ、巻島さんに送るんすか」
「なんだ? 撮り直してほしいか?」
「……いえ」
「まぁこれはこれで、今泉らしいと思うよ」
「俺らしい、ってなんですかね」
「うーん、クール? とか?」
「適当っすね」
「はは、その冷静さで来年は総北を引っ張ってくれよな?」
「――そのつもりです」
 
今日は卒業式だった。
今年の夏は、金城さんも田所さんも、そして巻島さんもいないのだということを改めて実感し、俺はそっと手を握る。
 
 
重ねた練習は自分を裏切らない。
そう信じてペダルを踏んできたが、4月からは自分も先輩なのだと想像すると、どう振る舞えばいいのかよくわからなかった。自分が強くなればおのずとついてくる奴はいるだろうし、そういう者しか要らない、とも思う。
しかし去年の夏、俺たちを繋いでいたものはきっとそれだけじゃない。
いつもの峰が山、一人で走るのは久しぶりだった。鼻先をくすぐる湿り気を帯びた空気はすっかり春めいている。
腰を上げて、ダンシングに入ったその時、ふと、目の前を緑がよぎった。
(巻島さんだ)
追いかけるように見上げた空は、春の色だった。
夏を越え、秋に色づき、冬に葉を散らした沿道の木々が、まるで春を、新たなロードレースのシーズンを祝福するかのように芽吹いている。
 
高校生活を前にした巻島さんが、緑を選んだ理由はこういうことだったのか、と今更ながらに腑に落ちた。クライマーっていうのは本当に、山の事ばかり考えているんだな。そう思うと笑い出しそうになったが、俺の顔はちゃんと笑っているのだろうか。
 
たとえぎこちなくても、巻島さんは笑顔でコミュニケーションを取ろうとしてくれていた。そんなことを思い出し、少しばかり背中が軽くなる。
 
(先輩になったら、俺はあなたよりうまく笑ってやりますよ)
 
山頂の景色を写真に撮る。暫し迷って、小野田や鳴子に向けて送信した。特に理由を書いたわけでもないのに、彼らがこの光景を見て思うことはきっと自分と同じだという確信があった。

C03『苦手な、先輩』の作者は誰でしょう?

  • ein (35%, 6 Votes)
  • ゆっこ (18%, 3 Votes)
  • うい (18%, 3 Votes)
  • シア (12%, 2 Votes)
  • モカ子 (12%, 2 Votes)
  • 天津 (6%, 1 Votes)
  • 高橋 夾 (0%, 0 Votes)
  • uri (0%, 0 Votes)

票数: 17

Loading ... Loading ...

←C02『赤』へ / C04『カラーマネジメント・イン・ザ・メモリー』へ→

×