B06『新世界』

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 真っ白になった。

 物心ついたときには、抱えきれぬほどの色に埋もれていた。世界は小さな箱の中にあって、目映く、儚かで、ほんの少し手を伸ばせば触れてしまうどんな塊より――よほど近しいものにも、揺るぎないものにも思えた。
 いつから――こんなところにいるのだろう。
 校庭を行交う薄紫の影、ざらざらと葉の隙間を明滅する午後の光。埃っぽい廊下の匂い、汚れた上靴、階段の罅、白い壁に滲む教科書の朱。
 眩しかった。時に目をあけていられなかった。箱の中の激情も狂気も、奔流となって溢れ出てくるようなことはない。その足で蹴りつけてくるようなこともない。なんでこんなことに、と、思わないこともないのだ。悪い気持ちではなかった。ただ言葉を失うほど遠い。
 あちらに棲みたいと、搾りだすように願ったこともあった。優しいものはみんなそこにあった。いま吹けば飛ぶような朧げな輪郭を、漸く車輪の形にまるめることを憶えた、頼りない命の名を小野田坂道という。
 
 
 信号機ショ、と――。
 不意に巻島が言った。目に痛むような世界の中でも、いっとう色の多い、何もかも桁外れの人だ。外周を終えてベンチの上に長く――自称――なっている鳴子に、おめえが赤だろと長い指を突きつける。気味が悪いほど饒舌だ、どうやら機嫌がいいらしいと、逆さに振っても言う必要のない感想をローラーの上から金城が洩らす。赤銅色の月みたいな、刃渡りの長い、全体としては鈍い、重い色のイメージ。しらんけど赤は譲れませんよってに賛成ですと、臥せったまま疳高い声が言うのに被せて、同じく外周帰りの――もう回復したらしい――田所が携行食を食いちぎりながらがははと笑った。澄んだ飴色。壺の底の蜜の硬質。
 ゆっくりと天井を見上げる。坂の上にある校舎は大きな樹に囲まれていて、ここでも葉の隙間を零れでた陽が、水の中のようにゆらゆらと搖らめいている。風の音がするようなしないような。目に見えているものに、躰は思いの外毒される。
 今泉が青すかと、ふかふかのタオルを畳んで棚に押込みながら手嶋が茶化す。窓の外をちらつく梢に似た緑。なんで小馬鹿にされてる感じなんですか俺。だってさ、いかにもお前っぽいじゃん優等生の青、ごあんぜんに! ――安全なのは何も悪いことでないし、いつでも背中を押してくれる青は相応しいもののように思うのに、論われた人は子どもみたいに目を三角にして、あからさまにふくれている。
 難しいんだなと思う。
 小野田が黄色か。いいじゃねえか最強で。分厚い掌にどしんと背中を叩かれた。覿面に咽せる。いつの間にか傍に立っていた青八木がそっと摩ってくれた。六時間目の雨の日、真っ黒な空を劈く、金に近い霹靂。
 黄色。強いんですか。息も絶え絶えに問うと、そりゃそうっショと巻島が請合った。本当に機嫌がいい。
 マイヨ・ジョーヌって知ってるか。教えてやれショ金城。お前が教えたらいいだろう。巻島さんがまともな説明できるとも思えませんけどね。いやこの人自転車関係ならまあまあ喋らはんで。翔び交う言葉の中を縫うように、目の前に水のペットボトルが差し出される。飲むかい、だいぶ咽せていたろう。
 掌を合わせたい気持ちで顔を上げる。僕が教えてあげるよ経験者だからねと、雀斑の浮いた瓜実顔が照れ臭そうに口の端を上げた。ツール・ド・フランス。二十一の多彩なステージ。ゴールはパリのシャンゼリゼ。まるでファンタジーみたいな浮世離れした言葉がよく似合うのも、杉元ならではだ。ハリー・ポッターの世界観だってきっと、見てきたように語れるだろう。光沢の強い、サテンの空色。
 僕はそんな、と、口の中で転がしていた言葉を、すぐそんな風に折るもんじゃないぞとスポークの先の影がやんわりと遮る。古賀という人の声はどこか磨かれた金属に似ている。宵闇、赤と紺の交わる、亀裂に似た雲の輪郭。
 ほんなら赤も最強や。マイヨ・ロホ、いただきますわ。いつの間にか起き上がった鳴子がテーブルの上にひょいと乗った。胡座をかいてするりと収まる。
 猫みたいだなと思う。あんな猫がいたらきっと、野良でも飼い猫でも人気者だろう。いつだって鳴子は人に囲まれている。春なら篝のように、夏なら花火のように、秋には焚火のように、冬の熾のように――いつもどこか燃えていて、赫い。
 陽が少し傾く。
 じんわりと?が熱くなる。
 山でいいのかよ。緑じゃなくて。わい緑似合わんのやもん。確かに似合わねえな。今泉がアッズーラかァ。なんか納得いかねえショ。あんたが言い出したんじゃないすか。ぶはは今泉ピンク似合わねえ。なんでうちのイケメンはみんなピンク似合わないんすか。
 目を――。
 閉じてみた。ゆっくりとひらく。
 丁寧な目搏きになった。
 赤い色だけが、光のたまのようにしてふわふわと浮かんでいた。太陽をじっと見たときのような、裸眼に滲むテールランプのような、落着きのない、色みの薄い、微かな明滅。繰返しながらそこにいる。まるで命あるのものの饒舌さだった。この賑やかさ、さびしさには憶えがある。
 この赤じゃない、の、かもしれないな。唐突に思った。振向けば対にある筈の寡黙な青が、それ以外にないという顔をして針みたいにそこに立っていた。この青はこの青だ。強くて、たぶん少し正しすぎる。また少し傾いた陽が端正な顔立ちに濃い陰影を落とす。
 どうした小野田。ごめん今泉くん。謝るとこじゃねえだろ。
 おいスカシぃ――。
 また――疳高い声がした。さっきより高い位置にある。窓枠に器用に腰を下ろして、はだしの足をぶらぶらさせながら不確かな赤が笑った。そちらを向こうとして、捻った首をちりちりと陽が刺す。
 その真顔キッツいからやめろや。小野田くん怖がっとるやないけ。アップに耐えられる絵とちゃうねん。なあ小野田くん。
 眩しかった。
 いつからこんなところにいるのだろう。この背を追いかけて、見たこともない道の上に出た。俊烈な青に見入るのと同じだけ、見ていられないときがある。あかい光。息をする火。いつも燃えていて。いつか消えてしまいそうで。
 ゆらゆら。
 ゆら。
 あと十日かァ。今その話やめろ。俺生物に賭けます。純太、賭けに踏切るのが早すぎる。……いつの間にか話題は逸れて、中間試験がどうの、得意科目がどうのと、生木のような話に移っていた。煌びやかな人が珍しくその色に添うだけの明るみで囀っている。ほんとおめえ台風みてえなァ。躰動かすことなら何でも得意ショ。
 それ暗にアホや言うてます。思いがけずにやりとする。秀才にゃ見えねえ。失礼やなあ、地理なら満点すわ。――
 やっぱ台風じゃねえかと色の多い声が笑った。地の利を味方にして、次はどこを荒らす。
 本当にそうだ。嵐なんだ。だからどこにでも行ってしまいそうなんだ。急に消えて。
 しまいそうなんだ。
 からからと、擽ったい声も笑った。
 陽はほとんど真横から、影絵のようになった木々の間を射してくる。
 光。
 ちりちりとした。
 相応しい色がどんなものかを考えた。
 目を――。
 閉じてみた。
 
 真っ白になった。
 
 
 
 
「新世界」

 

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