B05『東雲の背中』

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 昔から夜が苦手だった。
 一人で居る部屋の天井は星も見えなくて、吸い込まれそうな黒に何もかもが奪われてしまったような虚無感が襲ってくる。
 体が弱かったのもあるのかもしれない。特に発作が出た日の夜は酷かった。まるで世界に取り残されてしまったような、呼吸音だけが空気に溶けていくのが怖くて仕方無かった。

 その感覚が変わったのは自転車に乗り始めてからの事だった。初めて幼馴染と登った坂で、心臓が文字通り跳ね上がった気がした。
「坂の向こうにはあると思うんだ、生きてるって感じが。ね」
 幼馴染に言った言葉は間違いなく真波の本心だった。
 追い込む痛みや苦しさが死んでいた心を驚くほど刺激してくれる。初めて感じた”生きている”という感覚に興奮してその日の夜は眠る事なんて出来なかった。
――あれ、怖くない……。
 そして、はたと気がついてしまった。生きている、と感じた日の夜はキラキラと綺麗に輝いていて夜に意識が持っていかれないという事に。
――すごいや……!
 今まで怖かった筈の天井の黒ですら輝いて見えた。苦しい中で確かに掴んだ輝きがまるで満天の星空のように目の前に広がっている気がして輝いて見えたのだった。

 真波が自転車にのめり込むようになるにはそこからさほど時間がかからなかった。
 生きているという実感を感じる時間はかけがえのないものだ。
 ゲームの中の絵空事でしか無かった”死”と”生”が間近に寄り添うようになって、生まれて初めて”生きる”という事に形を見出すことの出来た真波の病状は、体力がついたという事もあったのだろうが徐々に快方へと向かっていった。

 中学に上がる頃にはもう寝込んで学校を休むこともほぼ無くなっていた。高校に入って毎日山を登ることで更に真波の走りは強く洗練したものになっていくのだった。
 ただ真波は別段強さを求めているわけでも、速さを求めているわけでも無かった。周りの持て囃すような声は真波の耳をするりと抜けて何処かに消えていってしまったし、その言葉に価値があるとは思えないものだった。
 その反面強くなった事によって競う人が増えた事は嬉しい事だった。ゴールの前、山頂を競っているときの苦しさは一人で登っている時よりも何倍も”生きている”と感じたし、箱根学園にはその”生”を感じさせてくれる山も人間も沢山いた。
 その中でも真波の人生を変えたのは”東堂尽八”という人間に出会った事だ。

 東堂、という人間は不思議な人だった。
 正直最初は苦手だったのだ。夜のような黒い髪に静かな朝焼けのような紫色の瞳。普段騒がしい時には見られない、時折感情を無くしたように静かになる目がまるで夜を閉じ込めたようで怖くて仕方がなかった。
 とはいえ東堂の走りは真波に堪らなく”生”を感じさせるもので、静かに音もなく登っていく背中に背負った”生”と”死”が同居する東堂に畏れと同時にとてつもない魅力を感じたのは事実だった。
「自由に登れ」
 東堂の言葉は強く真波の背中を押した。
 勝つ事、それに執着する周りの空気に正直気圧されていた真波はただひたすらに前を見て”生きてる感じ”を探す為にペダルを回した。
 そうして迎えたインターハイ、真波は、箱根学園は敗北した。
 ゴールラインを割る手前の高揚感は本物だった。苦しいも痛いも興奮も喜びも全てを混ぜ込んだような昂る感情は、現実を実感した途端真っ暗に染まっていった。
 初めてだった、負けて悔しいと心の底から思ったのは。
 初めてだった、死ぬほどの後悔で押し潰されそうになってしまったのは。
 その日から真波は夢を見るようになった。

 暗い世界にたった一人、どこまで走っても続く黒は少しずつ少しずつ真波の体まで侵食していく。やがて走るのをやめて見下ろした体に纏わり付く闇は真波を飲み込んで全身をどす黒く染めていった。
「っ……!」
 慌てて飛び起きた瞬間、どくどくと耳元で鳴っているような心臓音の隙間から、暗い部屋に響く時計の音がただ静かに鼓膜を揺らした。見下ろした手のひらは確かに肌色をしているはずなのにぼやけた視界にはただ暗闇だけが映っていて、じわりと夢の中にいた魔物のような黒が蠢いている気がした。
――自分が、夜になってしまった。
 吐き出せない感情は積もりに積もって、登ることの楽しさすら飲み込まれてしまったようだった。
 次の日から毎日ただ闇から逃れるために脚を動かし、疲れ切って眠る時にも闇と向き合う。
 寝なければ力など出せない、このままではいけないと思うほどに真波は闇に囚われていった。

 そうして迎えた、三年生と走る事の出来る最後の日の前夜。真波の精神はもう磨り減りきっていた。生きていると感じる筈の何もかもを試してもダメだった。
――のぼろう……。
 振り切れない事は分かっていた。それでも真波に残された生きているという実感を感じる為の手段はこれしかなかった。
 どうしようもない衝動で山へ、夜の色を振り切るように。痛みを苦しさを感じればその瞬間だけは解放されると知っていた。
――苦しい。
 上手く眠れていないせいか、普段より早く上がる呼吸に喉が喘鳴を起こす。掠れた空気音につられるように心臓が痛みだした。
――ダメだ、暗い……なんで。
 視界の端がじわじわと暗く染まっていく。アスファルトに引かれた白い線まで霞んで、暗闇に溶けていった。焦りと不安が、俯いた視界を流れていく。脚を止めてしまいそうになった、その時だった。
 ふと先の方から射す光につられて視線を上げる。もう朝日が昇る時間だったらしい。山際から少しづつ顔を出し始めた太陽は真っ暗だった真波の前を、いつの間にか紫色に染め始めていた。
 真波の居る黒い空から、少しづつ薄まった紺は紫色に溶けてオレンジに変わっていく。山頂にかけて続くグラデーションの中にぽつりと存在する人影が始めて真波の意識に飛び込んできた。
――あれ、……。
 山の頂上に、ただ静かに存在する見慣れた背中。確かに存在する黒に目を奪われた。
 山の頂上付近を走るまっすぐに伸びた背中が闇を連れて行ったような、赤と黄色と紫にそこだけくり抜かれたような黒。
 少しずつ暗さを無くしていく空に、真波の心にかかったもやまで取り払われていくような気がした。
――やっぱり東堂さんは、凄いや……。
 ふわり、と浮上した気分のまま踏み込んだペダルには、もう闇は纏わり付いて来なかった。

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