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お袋の付き添いなんや。最近カメラに凝ってるらしゅうて。一緒に行く友達くらいおるやろって言うたんやけども、たまには親孝行しいって、なんや強引やないか……男はきらきらしい目を瞬かせ、朝靄のような満開の藤には目もくれずに笑うのだった。空には綿雲がぽつりぽつりと泳いでいる。
宇治駅から平等院までの道のりは長閑で観光客の姿もまばらだった。薄昏の上空には琵琶湖から南へ境を切るように山稜が伸びている。宇治市は伏見区に隣接する拓いた町だが宇治川沿い、中州に浮かぶ公園のあたりは平日には閑散とした散策コースで、岸神は思い出したように文庫本を片手に訪れたのだった。ロードバイクに跨ってから読書量はグンと減った。
男はローディーで高校生自転車競技界では母校である京都伏見を応援してるという。岸神は御堂筋に触れるために京都伏見へ入学したのだったが前年インターハイで走る姿は見ていない。いまでこそ岸神の世界はひらけて多種多様の個体を味わいたい欲求に満ち満ちているが、めいいっぱい伸ばして届くかどうかわからない頼りない腕は、あのとき、たった一本、御堂筋翔に向いていたのだった。優しいあのひとに触れるためにひたすら毎日ペダルを引いて、もっともっと足裏のふくれた腹と一体化するように、難色を示す母親にも頭を下げてビンディングを設置した。脇目もふらず、飛ぶように舞うようにあのひとに追いつきたいと願っていた。―――ようは男のことを岸神は知らないのである。
「どないな具合なん? 部活は? 楽しいか?」
「ええ。楽しいですよ。とても」
男は驚いたように目を丸くしたが、すぐに歯を見せて笑った。快活な性格なのかもしれない。きっと男は御堂筋のことを知っているのだ。もしかしたら悩める後輩の相談に乗る心づもりで声をかけたのかもしれない。「人違いやったらごめん。キミ、京都伏見の自転車部の生徒?」……付き添いで来たらしい当の母親が撮影に夢中になっているのを尻目に、男はベンチで筑摩の尾崎翠全集を読む岸神に声をかけたのだった。
平等院は花の盛りだった。宙には藤、足元にはツツジが咲いている。白いツツジは緑に埋もれた星々のように色めいている。初夏も夕刻に迫ると青空はしだいに薄曇りのまばゆい照り返しにあたりが黄金色に輝いて、みぞれの滝のようにあえかな藤のふくれる紫が、光のなかで彫刻のように白く時間を止めているのを別世界のように眺めている。美しい景色に囲まれている確信を胸に本を読むのは好きだ。
まどろい時間は好きだ。
「いきなり話しかけて堪忍な」
「いえ。ボクも先輩と話せて、光栄です」
「先輩なんてそないたいそうなもんやない……まあ照れるけどな……でもホッとしたわ。楽しいいうてくれて。オレも三年間過ごした思い出の場所やさかいに、後輩にええ財産残したろうって気持ち、なんぼかはなあ、あったし……」
いまさら気恥ずかしくなったのかもしれない。男は岸神から目を逸らして
「花はオレの柄やないやんか」
「へえ」
「でもたまには親孝行せなあかんなあて。自分じゃ思いつかんようなとこ行けるし、キミにも会えた」
「はあ……」
「木利屋はどうしてる? 船津は? ノブ……水田と山口はもう卒業か。早いなあ。なんや年寄りみたいなことばっかいうてはるやろ。堪忍な」
「いえ。……先輩がたにはお世話になったので」
先輩の手前そう言っておくのが無難だろう。
御堂筋翔や「よきにく」以外の生き物に対する蔑視が岸神にはあった。無関心を装うそれは蔑視に過ぎず、岸神に悪徳の自覚はなく、たとえ話しかけられても取っ掛かりのない壁のようにだんまりを決め込んでいたのだった。けれども先の夏の3日間は岸神に読書の如きかつての倣いを思い出させたのだった―――些細な他者への飽くなき好奇心。
多種多様の個体に対する愛情。bestではなくbetterを見出す仄暗い遊び。太陽にプリズムを翳して七色を白紙に照らしだす。千代紙の模様から同系色をちぎり小箱に詰める。隠微でひそやかな胸の裡を粛々と満たすだけの作業工程。その積み重ね。快感の手前を繰り返す愉悦。おおきな光に眩んで岸神は忘れていた………色彩に満ちた世界の小さな興奮を!
研ぎ澄まさなければならない。感性を。指先の触覚を。おおきな欲ばかり満たして神経を摩耗させてはいけない。瞬間が未来へと連なっていく気忙しいなかにも那辺への鋭敏な閃きを持たねばならない。彩色への感度こそ豊かな快楽の土壌となるのだから。
嬉しそうににんまりと笑う男も、岸神にとっては愛情を向けるべきつまらないものだ。博物学のように偏執的なまなざしを覆い隠して、パーゴラに絡みつく樹冠から枝垂れた紫の色が、あたかも男そのものであるかのような錯覚を自らに課して、岸神はこの凡庸で快活で善良な人間に微笑むのだった。
「ところで先輩。お名前は?」
「ああ。言うてなかったな。……井原。オレは井原友矢いうんや。岸神くん」
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