B02『青は藍より出でて藍より青し』

  • 縦書き
  • aA
  • aA

 真昼の部室は閑散としている。しかしこう天気が良ければ仕方がないかと、福富は練習場の窓を開け放った。緩く広がる晴天に、春の匂いも近付く淡い風。絶好の外周日和である。
 だというのに福富が屋内練習場に引っ込んでいるのは、ひとえに現役生の邪魔をしないためだ。部員たちはぜひ指導をと言ってくれるが、代替わりの時期に首を突っ込むのは得策でない。東堂とそう取り決め、OBとして練習場所の間借りをさせてもらいながら、自主練には付き合うというスタンスを貫いていた。
 大方、後ろでごうごうとローラーを鳴らしている男も同じようなものだろう。換気も忘れて延々ペダルを踏んでいた荒北は、短い電子音にその足を緩めたところだった。くたくたのシャツで億劫そうに汗を拭って、ぐいとドリンクを煽る。
「精が出るな」
「まァね」
 声をかけつつローラー台に乗る。隣の荒北はちょうどインターバルなのか、ゆったりとしたペースでペダルを回していた。そのまま視線を落とせば、機材の下には薄く水が浮いていて、福富は素直に感心する。とことん練習を裏切らない男だ。
 荒北に倣って今日はいつもより追い込んでみてもいいかもしれない。思い立ったが早く、福富は頭の中で時間配分を組み立て、徐々にペースを上げていく。しかし、いざウォーミングアップを終えようかといったところで出鼻を挫かれた。ふわりとした調子で、荒北が口を開いたのだった。
「こないだのアレさァ」
 随分と抽象的な切り出し方ではあったが、その口ぶりからなんの話かは察せられる。十中八九、引退前の最後のレースとなったファンライドの件だろう。伝統の追い出しレースで、それぞれ気に掛けてきた後輩たちと勝負を繰り広げたのは記憶に新しい。福富としては、ぎらりと燃える目で振り返った葦木場の姿が薄っすらした感動と共に焼き付いている。
「勝たれたな」
 福富が呟けば、荒北は頷いた。次代の箱根学園エースとそのアシストとして、後輩たちは見事な走りを見せつけてくれた。勝負に負けた悔しさはあれど、清々しく天を仰ぐ葦木場を見るのは、福富としては中々どうして悪くない気持ちだった。
 そしてはたと気がついた。自分が葦木場を眺めたように、黒田もやり合った荒北は何を思ったのだろうか。
 あの時、ほんの僅か、ポジション取りに競り負けたのだ。ゴール前ではその小さな差も侮れない。つまりは荒北個人としても、黒田に勝たれていたのだろう。
「それでか?」
 余程悔しかったかと問いかければ、荒北はケラケラ笑って首を振って言った。
「ちっげーよ、受験で鈍っちまったのがウゼェだけ」
「そうか」
「ンだよ、ヘコんで見えた?」
「いや」
 ただ、荒北が負けず嫌いであることは、福富だっていい加減承知している。実際のところ、並々ならぬ集中力でようやく受験を終えた荒北が、今度はまた自転車漬けになっているとは聞いていた。一時期の滅茶苦茶な練習量に近いのでは、と東堂が苦言を呈するほどに。
  追い込むからには理由があったのかと思ったが、当の荒北は実にサッパリした様子だ。それでもちらと目をやれば、今日の彼はなんとなく拗ねたような、しかし照れたような、不思議な顔色をしていた。
「なんつーか、ヘンな感じでさあ」
「と、言うと」
「だってよ、あのクソエリートがとうとうエースアシストだぜ」
 いつものように大きな身振りで言う荒北の声には、悔しさの中にたっぷりの誇らしさを混ぜ込んだ、複雑で楽しげな色が浮いて見えた。それは「最後の最後で泉田に差された」とウィンクした新開にも見えたもので、同時に「俺は譲らなかったがな!」と高く笑った東堂にもあったものだった。
 結局後輩が可愛いのは誰も彼も同じか、と素直でない相方を見遣る。ばちりと視線が衝突した途端、荒北はなにを思ったのか「でも次は絶対ェ勝つし」と唇を曲げた。「頼もしいな」と相槌を打ちつつ、福富もひっそり期待する。
 このぱっきりした空色で、細かく傷を刻んだフレームを隣に見られなくなる日は近い。けれども、黒田との次の勝負を口に出す以上、荒北はきっと自転車を続けるだろう。すると自然に、葦木場とぶつかったあの時のように、荒北ともゴールを争う日を思い描いてしまう。俺が育てたのは後輩だけではないのだぞ、と。そう言ったら、荒北は果たして怒るだろうか。

B02『青は藍より出でて藍より青し』の作者は誰でしょう?

  • yumeji (60%, 9 Votes)
  • 如月葉月 (27%, 4 Votes)
  • 木本梓 (7%, 1 Votes)
  • える子 (7%, 1 Votes)
  • 秋野 (0%, 0 Votes)
  • 柏木ちさと (0%, 0 Votes)
  • 清水 (0%, 0 Votes)
  • ヒライデ (0%, 0 Votes)

票数: 15

Loading ... Loading ...

←B01『青い春とは言いますが』 へ / B03『ばら色の日々』 へ→

×