A07『星を悼む人』

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 一月の終わり、箱根の山は記録的な大雪に見舞われ、箱根学園も校舎、グラウンド問わず一面雪に覆われた。月曜の午前中から少しずつ降り始めた雪は、予報通りの爆弾低気圧らしく、午後になっても降雪量を増す一方で、四限の途中で教師が授業を中断し、職員会議が行われてまもなく全校生徒に帰宅命令が出された。
「積もってきてるな」
「まだしばらく降りそうだしな」
 教室の窓から外を見た東堂の声に、新開が声を合わせる。雪は深々と降り続いていた。教室では携帯で親に連絡して迎えに来てもらう者や臨時のスクールバスに間に合えと慌てて片付けている者もいる中、寮生達はいざとなれば学校から目と鼻の先にある寮まで走ればいいと焦るそぶりも見せなかった。
「ウサ吉、中に入れなくていいのか。凍えてしまうぞ」
「朝のうちに部室へ移しといたよ。古いタオルたっくさん入れておいた」
 そうか、と東堂が頬を緩める。窓の外は雪がいっそう降り続いている。
 不意に窓の外に何かを見つけて、東堂は身を乗り出すと窓の下を覗き込んだ。
「どうした、尽八?」
「いや、今何か」
 何かいた気がして、と言うはずの言葉を飲み込んで、目に止まった黒い影を見つめる。雪の中をのそり、のそりと歩いていく、あれは人影。ひょこりと跳ねた癖毛に東堂は眉をひそめて席を立ち上がった。
「おい、尽八」
「先帰っててくれ」
「おい!」
 新開が止める手をするりと払い、東堂は自分のコートを引っ掴んで教室を駆け出した。後を追いかけて廊下に顔を覗かせた新開が、荷物持ってっとくからな、と声を張るのを背中に聞き、東堂は廊下の角を曲がるときに軽く手を挙げていった。
 三年の階から階段を下るほどに身体が冷気に包まれ、その中に沈んでいく。玄関は下校しようと傘を片手に外の雪景色をうんざりした顔で見上げる生徒でごった返していた。靴箱で下足に履き替え、人並みをすり抜けて外に出る。傘を持ってくるのを忘れてしまったが、取りに戻るより急げと東堂は雪の中を走った。
「真波!」
 声をかけたその人のダッフルコートの肩はもう雪で真っ白だ。背中の藍色目掛けて東堂が手を伸ばす。肩に触れれば雪が手のひらで水に変わる。
「何してる、傘も差さないで」
 振り向かせた真波は俯いていた顔をゆっくりと上げ、声のする方を見た。虚ろな目をしていた。真っ白な雪ばかりを映すその目に東堂は映っていなかった。
「真波」
 佇む二人の上には深々と雪が降り積もる。真波の左肩も、また藍色の生地が白く隠されていく。東堂は真波の髪についた雪を払ってやった。髪の毛が濡れているのがわかる。前髪の雪を払おうとして指先が目元を掠めてしまい、はっと手を引いた東堂の指先を真波の視線がゆっくりと追った。
「とう、どう……さん」
 空と同じような虚ろな目をしていた真波がゆっくりとその目に東堂の顔を映していった。瞳に映る自分が見える。なんて怯えた目をしているんだと、東堂は映る自分を見て息を呑んだ。
「ちょっと、山行きたくて」
 東堂が視線を落とせば、真波の足元は雪が溶けた水と泥でズボンの裾がひどく汚れていた。グラウンドを突っ切ってきたのか。スニーカーも水を吸ってぐちゃぐちゃだ。
「きょうはだめだ。雪が」
「でも、雪じゃなきゃ」
 雪じゃなきゃ、だめなんだ。
 そう言って山を見上げた真波はまた虚ろな目をしていた。雪が降りしきる空の雲のような色をした、何も映さないような目をして。
「真波」
 東堂はするりと真波の頭に手を伸ばし、また薄っすらと積もっていた雪を払ってやると、氷のように冷えた指先で真波の手をぐっと握った。
「自転車じゃなきゃだめだ。お前が登るのは、雪山じゃない、自転車で登る山だ」
 雪山じゃない。
 自転車で登る山だ。
 ゆっくりと繰り返される言葉に、真波の目が再び東堂を映し始める。東堂だと理解したのがその表情から分かった。はっと我に帰った真波はしばらく東堂の顔を見つめていたが、突然くしゃりと表情を崩し、目からは大粒の涙がこぼれた。ぼろぼろとこぼれる涙に嗚咽が混じる。握られていた手で東堂の手をぐっと握り返すと、こぼれる嗚咽を堪えるように力いっぱい握りしめて離さなかった。
 雪は深くなるばかりだ。東堂は真波を寮に連れて帰り、服を着替えさせて濡れた髪を拭けとタオルを渡した。体が温まれば、とそのあいだにホットミルクを用意して、マグカップを手に部屋に戻ってみると、真波は東堂のベッドの上で毛布を巻き付けて寝落ちていた。鼻をつまんでも起きないほど熟睡している。ベッドサイドの勉強机の椅子に腰を下ろすと、東堂は諦めて窓の外を見遣りながらマグカップに口を付けた。

 真波が目を覚ますと辺りは暗くなっていて、ベッドから上半身を起こせば隣の勉強机に突っ伏して眠っている東堂が見える。毛布を巻きつけている自分の姿を見て、いつの間にか眠ってしまっていたことに気付いた。
 カーテンが開けっ放しになっている。窓の外がとても明るかった。
 ベッドから起きだして、勉強机に片手をついて外を見る。真っ白に降り積もった雪を月明かりが照らしていた。空は千切れた雲がわずかに残るばかりで、群青色の夜空には砂金粒のような星が幾つも見える。
「ん……、まなみ?」
 起きたか、と寝起きのくぐもった声で東堂が言う。見下ろすように視線を向けた真波が、はい、と静かに言った。
「星が、近いですね。山だから。下よりもずっと」
 夜の山は星に襲われるらしいです。
 そう言って、真波はまた窓から空を見上げていた。
「父さんが教えてくれたんです。夜、山の急斜面を登ってると、星空に登っていくようだって。信じられないほどの数の星が空にはあって、それに向かって登っていくんだって」
 八千メートル級の山岳を登る。東堂は初めて真波が《その話》をした日のことを思った。夏の死にそうに暑い日、ただひとつの頂を目指してふたり全力を尽くして登った、何でもない或る日のことを。
「憶えててくれてありがとう、東堂さん」

 いつか、どうしようもなく行ってみたくなるかもしれません。
 父を飲み込んだ雪山が知りたくて。
 その時は、東堂さん、俺を見ていて。

「お前は、自転車が似合うよ。真波」
 誰も触れていない、真っ白な頂。
 真波の父が目指した頂を、真っ白な自転車が登る。
 まだ誰も触れていない頂を目指して。
 幼い記憶におぼろげに浮かぶ、父の面影に惹かれて。

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