【F03】とてつもなく空

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 今日も空が低い。
 箱根の山も真夏になると、手が届きそうなほど雲が低く、飲み込まれるように青かったが、ここフランスのプロヴァンス地方では、それは殊更だった。
「お疲れさまでーす、東堂さん」
 レースも後半だというのに、一切の緊張や強張り、そして疲労も感じさせない声色で、後輩が声をかけてくる。初めて出場したインターハイでもスタート前に眠っていた、どこまでもマイペースな奴だったな。
「全く呑気だな、真波」
「いやあ、まだサイクリングだから暇かなって。もうちょっと前行きたいですよね」
「日本語だからとあまり好き勝手言うなよ? どこで誰が聞いているか」
 真波の耳にささった無線を目だけで示しながらため息をつく。訂正しよう、世界の舞台でこんなことを言ってのける男が、マイペースの一言で片づけられるわけがない。やはりどこか異常なのだ、オレが見込んだこの男は。
「えへへ。さっきようやく山だと思ったら、すぐ終わっちゃったんで物足りなくて」
 今日のコースはスタートから百キロ以上、ほとんど起伏のない平坦道だった。早々に逃げ集団が形成されたが、オレたちのいるメイン集団も徐々にスピードを上げて追っており、おそらくはあと数分のうちに捕まえられるだろう。
「それに、やっとメインディッシュなんで、うずうずしちゃいませんか」
 そう、最後の山の麓に辿り着く前には。
「否定はせんよ」
 ですよね、と言ってアイウェアの奥の目が細められた。
 単調な道の終わりに待ち構えているのは、ご褒美かはたまた地獄か、世界屈指の最高難度の山。その山頂ゴールだ。寒冷かつ乾燥した北風の影響で、山頂部はほぼ草木の存在しない不毛の地になっている。石灰岩がごろごろと転がる山肌は白く、時に驚くほどの突風が吹き荒れ、ただ標高が高いだけの山や勾配がきつい山以上に選手を苦しめる。
「あの山、キレイですよね。なのにちょっと怖い感じ」
「ああ。どこか異世界のようだな」
 以前にも登ったことがあるその山は、標高が上がるにつれ勾配もきつくなり、木立がだんだん少なくなって緑から白へ移り変わっていく。気温の低さと風の強さも相まって、柄にもなく怖気立ったものだ。
「てっぺんで見る空も、キレイなんだろうなあ。そういえば空も、つくりものみたいに今日は特にキレイ」
 真波の言葉に、先ほどまで同じようなことを考えていたのを思い出す。真っ青で、雲は白く形好く、空はこうあるべきだと主張しているかのような空だ。
「空のお手本のような空だな」
「何も見ずに空を描けって言われたら、多分こんな空を描きますね」
 思いがけず、すとんと腑に落ちる言い回しをした真波に、すこし感心しながら「そうそうそんな感じだな」と笑った。
 だんだんと山の麓が近づいてくる。逃げ集団の背中を捕らえた。チームによっては役目を終えたルーラーが、ぽつりぽつりと落ち始める。代わりのように観客が増え、自身の名が書かれた応援のボードも散見される。
「そういえば、今日は絵にサインをしたぞ。このくらい大きな」
 出走前、囲まれるようにしてファンからサインを頼まれる。書くものは色紙であったりウェアであったり様々だが、今日は一人、物珍しいものにサインを求めるファンがいた。画学生であるというその若者は、眼前にそびえ立つこの白く荒涼な山を軽やかに登っているオレの姿を描いた、彼の作品にサインをしてほしいと頼んできたのだ。
 こんな名画にサインしてしまっていいのかね、とすっかり板についたフランス語で訊ねれば、首がちぎれんばかりに何度も頷くので、彼自身のサインが入った隣に、いつもより心をこめてサインをした。ファンはなるべく平等に扱う主義だが、心を動かされたということだ。仕方がない。
「へえー、絵ですか。珍しいですね」
「驚かされたよ。さすがセザンヌの生まれた地というところか」
「セザンヌって?」
「南プロヴァンス出身の有名な画家だよ。お前も絶対に美術の教科書で見たことあるぞ。……ちゃんと授業には出ていたか」
 へへ、と笑って誤魔化す真波に眉根を寄せる。単位が足りない、と言ってスケッチに出るのを毎年恒例にしていたんじゃないだろうな。
「まあオレも西洋の絵画にはそう詳しくないが……確か、本物以上に本物を描く、といった特徴の画家だったかな」
「何ですかそれ。どういうこと?」
「目で見るありのままだけではなく、物の本質に迫っている、ということらしい。真に本物を描くということは、どう捉えるか、どう見るのかが重要なのかもしれないな」
 ふうん、と理解したのかどうなのか、いやこれはむしろ興味がなくなっている「ふうん」だと感じさせる相槌をうって、真波は微笑む。そういうとこ、高一のころから全然変わっていないな、と言ってやろうかと口を開きかけたが、真波は続けた。
「よく分かんないけど、山頂獲った時の空なら、自分が一番キレイに見えてる自信がありますよ」
 気が付けば集団は山の麓に到着し、徐々に登りに入っている。ここから数キロはまだ序の口の緩やかな勾配だが、そこを過ぎるとぐっと斜度が上がり、激坂区間になればオレの仕事だ。
「それは奇遇だな、オレもだよ」
 そして間違いなく、真波の仕事でもあるだろう。パット、とチームメイトに呼ばれたのと同じタイミングで、真波も彼の前を牽くチームメイトから振り返られる。どうやらもうそろそろお喋りの時間は終わりらしい。周囲のプレッシャーがじわじわと上がる。
「途中まで一緒に行きます? ほんとは一人旅の方が、オレは気持ちいいんですけど」
「ぬかせ。オレがいた方が、お前は速いだろ」
 胸の下まで開けていたジッパーを上げ、ハンドルを握りなおす。真波は対照的に、ジッパーを下げてグローブを背中のポケットにしまった。今までに、何度もあったシーンだ。
「お前が別のチームで良かったよ。同じチームでゴールを争っていたら、世界から笑われる」
「えーそれはそれで面白そうなのに」
 その言葉を最後に、視線を前へ向ける。さあ、行こうか。空以上の空を見上げるために、オレは強くペダルを踏んだ。

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