【F02】これから

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 見上げてみろっショ、って。
 小野田がそう話し始めた横で、今泉は呼吸を整えながらボトルをくわえた。指で押さえて流し込むと、寒風を吸い込んで乾いた喉に、ドリンクはここちよく沁みた。
 見上げてみろーーー声が、耳の奥で囁くようによみがえる。
 空を見上げる。
 言われるまでもない話だと思うけど?
 と、問いかけこそしなかったが、今泉は首を傾げた。自転車に乗っていれば、無意識に繰り出す一連の流れの行きつく先に、かならず見えてくるものだからだ。
「ボク、初めの頃はなかなか最後まではついて行けなくて、山頂で巻島さんが待っていてくれたことが何度かあって」
 マイペースで登り切った先に涼しい顔で待っている二つ上の先輩。緑の髪が風になびく、その背後に広がる夕映えの色。オレンジをうっすらと刷いた白いタイム。小野田が話すのをすこし聞いただけで、今泉にも簡単に思い浮かべることが出来た。なぜなら、見たことのある景色だからだ。
「アハ、うん、ちょうどいまの今泉君みたいな感じ。ドリンク飲んでて、おせえショ小野田、って」
 見ていたら思い出したのだと、小野田は言った。
 三月に入ったばかりの、日曜の朝だった。示し合わせたわけではなかったが、学校から峰ヶ山へと向かう馴染みのルートに入ったところで、前を走っていた小野田と偶然一緒になった。
 低山とはいえ、朝の山頂だ。吐く息は薄白く、鼻の頭や頬がピリピリと痛む。登りで温まっていた体が、少しずつ冷えてきている。
 巻島が一足早く高校を卒業し、イギリスへ旅立って半年以上が過ぎた。田所や金城も先日卒業していった。
 そして近頃の自転車競技部はといえば、どことなくひっそりした雰囲気だ。静かでいい、と今泉自身は思っているが、再び日本一を目指す部としてはどうなのだろう。新学期が始まれば多少は変わってくるだろうが、期待とも不安ともつかぬ漠然とした気持ちが、胸の一隅をたしかに占めている。
「いま思うと、巻島さんの練習には邪魔だったと思う。そういうこと、全然わかってなかった。いつも夢中で、何も考えずに追いかけてるだけで」
「そりゃ、おまえだけじゃねえだろ。オレもあの人には全然追いつけなかった。いま考えても、山じゃちょっとケタ違いだったからな」
 目の前で左右に揺れる髪。揺れる背中。掴めないライン取りも、常識外れのフォームも、一見無駄なように見えて、実際はカミソリのように鋭かった。 
 小野田とふたりで巻島の話をするのは初めてかもしれないと、ふと思う。
 夏の終わりから秋にかけて不調が続いていたころの小野田には、巻島の話題を振るなど考えられなかったし、小野田がその名を口に出すこともなかった。思い出を語れるほどになったのであれば、友人としてもチームメイトとしても喜ばしいことだ。小野田の不調はチームの士気に直結する。そして小野田は、自身の影響力には呆れるほど無頓着だ。
「今泉くんも? そういえばボク、巻島さんがほかの人と走ってるとこ、ほとんど見たことないや」
「オレも……集団以外ではそういえば、あんまりねえな。あの人、個人錬多かったしな」
「本気で走られたら誰もついて行けなかったもんね」
「山だけだけどな」
 悔し紛れに本音を吐いた今泉に、小野田は笑い返す。平坦道では、すこしも怖さを感じない先輩だった。
「で?」
 ため息をついて、促す。話の途中だ。小野田は小刻みに瞬いて、そうだった、と思い出したように言った。
「あああ、えっと、ごめん、えっと……なんだっけ。あ、あのまだ、一緒に走るのが何回目かのときだったと思う。巻島さんにつこうとして回しすぎちゃって、びっくりするくらい早く足が終わっちゃって、散々なタイムで登ってきて、自転車の上で、こう……」
 こう、と言って、トップチューブに伏せるような格好をする。
「……へばってたら、言われたんだ。見上げてみろっショって。しんどいときは、空を見たらいいって」
「つまり……切り替えろってことか?」
「ボクもそう思ったんだけど、べつに空じゃなくてもいい、ってすぐに言われて」
 プ、とふきだす。二人の噛み合わない会話の様子が目に浮かぶようだ。
「なんだそりゃ」
 空になったボトルをホルダーに差して、シートに跨る。
「まわり見りゃわかるショ、こないだとは違うショって……。言われたらわかったんだ。たしかに、その前に練習で走った時よりも、夏みたいな空気っていうか。暑いなって、思って」
 時間はたってる。何をしても、しなくても、たってる。でもおまえは何もしてなくはねえ。きつければそんだけ、確実に積んでるもんがあるってことショ。
 夕映えを背に、右手をパッと開いて、口許を歪める先輩の顔。汗まみれの顔を上げて、ぽかんと見つめる小野田。目に浮かぶようだった。今泉は目を伏せて、口許を軽くくつろげる。
「やってさえいれば遅かれ早かれ身につくんだからそれでいいって、そう言ってもらったんだなって、最近になってやっとわかった気がするんだ」
 小野田は達成感もあらわに、今泉に笑いかける。
「いや、普通にわかりにくいと思うけど」
「え、そ、そうかな」
 丸い眼鏡が白く光を弾いて、目の表情は良く見えない。特におまえにはな、とまでは言わずにおいた。
 今泉は頬を緩める。この小野田と、あの巻島が、当時二人きりでそんな会話を交わしていた。それだけのことが、どういうわけか妙に嬉しく思えた。
 夕闇の山頂で、ぎこちなく向かい合って、背中を丸めて。そうしてあの先輩は、小野田に言ったのだろう。自分が道の上を走って獲得してきた感覚を、独特の感性と言葉で、伝えたのだろう。
 自分はどうだっただろうか。金城との会話には、これといって思い出せるようなものはない。誰かに語るようなエピソードも皆無だ。ただ走って、追いかけて、勝とうとしていただけだった気がする。
「一年生レースのあのときに、最初に言われたんだ。自転車は回した分だけ強くなるって。そうだなって、今はボクも、自分自身でそう思えるよ」
「……まあ、その通りだからな。いまならあの人にだって完璧について行けるだろ、おまえは」
 褒めたというよりは事実を告げたけだったのだが、小野田は驚いて手をばたつかせたり頭をかいたり奇声を上げたりと否定に忙しい。
 いつも通りのその様子に、なんとなく安心する。出会って一年。一年前には存在すら知らなかった小野田は、いつのまにか、今泉にとってそういう存在になっている。
「空を見ろ、か」
 視点を変えろ。俯瞰で見ろ。そんな言葉では、当時の小野田にはきっと伝わらなかっただろう。巻島がそこまで考えていたかどうかは知る由もないが。
「おまえ、さ」
 ペダルに足をかけて、肩越しに振り返る。小野田もハンドルを握って、走り出す態勢に入っている。
「なに?」
 自分に置き換えてみたら急に照れくさくなったので、言おうと思った言葉は頭の中で一度呟いて、声に出すのはやめた。何も言わずに前を向いた今泉の背後で、小野田が口を開く。
「えへ、なんか、うれしいな」
「何がだよ」
 ペダルを踏み込む。
「巻島さんのこと、今泉くんと話せて」 
 小野田はずっと、巻島に手紙を書いて送っていると聞いた。返事があるのかどうかは知らないが、あろうとなかろうと、自分を伝えることのできる場所があるのは、小野田のようなタイプには良いことなのだろうと思う。
 山頂で待っていた巻島は、小野田にはきっと、待っていたとは言わなかっただろう。風が気持ちよかったとか、景色を見ていたとか、そう言って、姿が見えたら先にあっさり下って行ってしまっただろう。
 だが、もしも巻島がそこで待たない先輩だったら。
 置いていって、遅いと、足りないと、そういう言葉で伝える先輩だったなら、果たして小野田は、いま自分の後ろを走っているだろうか。考えるまでもなく、答えはすぐに出た。今泉は、遠い空の下にいるであろう、先輩の後姿をそっと思う。
 飲み込んだ言葉をもう一度、心の中で噛みしめる。
「……すげーな」
「巻島さん?」
「ああ」
 よかったな、会えて、とは、言わない。
「うん!」
 風が頬の横を滑り、耳のそばで髪がはためく。ごう、と通り過ぎ、後方へ流れていく。
 来月になれば後輩が入部してくる。そうすれば、部の雰囲気はきっと、がらりと変わる。全国優勝したチームだ。戦力になりそうな経験者も、きっと大勢やってくる。
 今泉は、自分が山頂で待つタイプではないことを知っていた。自分が、待たれずともやれるタイプであることも。
 出来ないことをやろうとしてもうまくやれる気がしない。自分に出来ることを、自分が得意だと思うことを、やれる範囲でやればいいのだ。
 山では背中に直に張り付かれているように感じるプレッシャーも、下りでは必死になってついてきている、というか感覚があるばかりだった。カーブを曲がりながら目線だけで振り返ると、肘を張り出したいつものフォームで、頭を下げ、背中を丸めている。
 小野田は、どんな先輩になるんだろう。巻島とは違うタイプだろうが、たぶん、似たところもあるだろう。未来の後輩が、そんな小野田に救われる日だって、あるかもしれない。
 前方に広がる空を見上げる。水色の濃淡のなかに、昇り切った太陽がつよく輝きはじめる。濡れた枯草と土の匂い。そこには新しいものの気配が少しずつ、たしかに混ざりこんでいる。
 春が、もうそこまで来ている。そして一年前とは違う自分たちが、あの頃とは違う、同じ道を走っている。
 この先には、きっと良いことしか待っていない。
 後ろから小野田がついてくる。
「遅れるな、小野田!」
 ひと声叫ぶと、胸のなかのもう一隅にたしかに存在する、未来を待つ晴れやかな気持ちをみとめて、今泉は、空を見上げて笑った。

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