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- aA
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いったいどうしてこんなことになったのか。
実家のタンスを漁りながらオレは大きくため息をついた。
事の発端は隼人だ。
部活前、着替えの途中で隼人が下級生の女子から呼び出されたらしい。彼女たちは申し訳なさそうに隼人を敷地の隅に連れていき、ひとりがコメツキバッタのようにお辞儀を繰り返したかと思うとほどなくして隼人はひとりその場を離れた。
特に珍しくもない光景だ。
オレほどではないが隼人も女子人気が高い。あのような隼人への告白シーンに遭遇することなど我が自転車競技部の部員なら一度や二度ではすまない。ある意味日常的な光景だ。隼人も慣れたもので何事もなかったかのようにロッカールームへ戻ってきた。
「断ったのか?」
「今は誰とも付き合う気ねえしな」
インハイのメンバー選出が終わったばかりだ。隼人はエーススプリンターとして箱学の伝統と栄光を背負って走らなければならない。男女交際などで浮かれている場合ではないのだ。
そう、本来はここで終わる話だった。それが――
「新開また告られたのかよ。さっきすれ違った女子がキャーキャー言ってたぞ」
遅れて顔を出した藤原がドアをくぐりながら言い、室内に目を向けたとたん隼人を見て大声をあげた。
「もしかしてそれで会った!?いや、さすがにシャツ着てたか……」
「これか?着替えの最中だったからこれで行ったよ」
隼人は着ているTシャツの胸元をつまんで言った。
「あー!これだからイケメンは!!さっきの女子も〝フラれたけどやっぱり新開さんカッコいい~~!!〟って騒いでたんだぜ。そんなダサT着ててもイケメンならかっこよく見えちゃうんだよな!」
「ダサTとはひどいなぁ。気に入ってるんだぜ、これ」
確かに気に入ってるようで最近やたらと隼人が着ているのを見かける地の色がオレンジで謎の唇が描かれたTシャツ。藤原がダサTと言うのは誇張でもなんでもなく、本当にダサい。一体どこに行けばあんなダサいTシャツが買えるのかオレも常日頃気になってたところだ。
「だよなあ、イチローだってよく変なTシャツ着てるけどかっこいいじゃん。イケメンは何着ても許されるんだって」
そう言ったのは小堰。すると、
「いや、本当にそうだろうか。世の中には新開すらダサダサに見せる究極のダサTが存在しているのではないだろうか!!」
妙に芝居がかった口調で藤原がロッカールームの中心に躍り出た。
「どうだ?おまえらのタンスの中にも誰かからの貰いもんだとか、旅先で買った変なTシャツが眠ってないか?」
誰からともなく「あるある」なんて声があがる。
「だろ!!では、開催しようではないか!新開隼人をブサメンに見せる究極のダサTグランプリ!」
おおー!という謎の歓声があがり、気がつけば賞品まで決まり(参加費100円で優勝者の総取り)、期日は二週間後の月曜日ということになった。実家が県外の寮生には厳しいが、実家に帰れる猶予もきちんと設けられている。
オレもこういうノリは嫌いではない。
嫌いではないが、いかんせんオレはこれまで「ダサい」というものを避けて生きてきたのだ。ダサい服など持っているわけがない。だが不戦敗というのはどうにも癪に触る。確かに土産で貰った変なTシャツが2~3枚タンスの奥で眠ってるような気がする。
かくしてオレは実家の自室で引っ張り出した服の山を前に大きなため息をつくに至ったのだ。
予想どおりダサTなんて一枚もなかった。――と、諦めかけたその時、まさにタンスの肥やしといった状態の一枚が出てきた。確か母が寺の知り合いからもらったオリジナルTシャツだ。
ダサい……とは厳密に言うと違う気がする。ある意味気に入っていたのだ。気に入ったから取ってある。だが、どうしても着る気にはなれなかった。オレの美的センスが警鐘を鳴らしまくった。
ではなぜ取ってあるかと言うと――字が気に入っていたのだ。
そのTシャツの地色は紺。前面中央に縦書きで「色即是空」と金の文字がプリントされている。その筆致がなんとも好みで捨てがたかった。そういえばこれを貰ったときに聞かされた話も面白かった。今の今まで忘れていたくらいだからウロ憶えにもほどがあるが、確か般若心経の一節と同じような一節が聖書にもあるとか。それを聞いた中学生の頃のオレには金色の文字がさらに輝いて見えてしまった。
しかし……あらためて引っ張り出したところでやはり着るにはどうか、というレベル。文字の大きさや配置、色は悪くないのに隠しようもないダサさ。おそらく2~3回洗えば色落ちしそうな安い染料とアイロンをかけないとシワが伸びなさそうな生地、襟ぐりが詰まっているにも関わらず、これもしばらくすると伸び伸びになりそうな、要は素材の粗悪さが醸しだしているダサさだ。隼人に負けじ劣らじ何でも着こなしてしまうオレといえど、これを着るのはプライドが許さない。
――というわけで、グランプリを狙うには弱すぎるが、オレはこれを寮へ持ち帰ることにした。
「じゃあみんな、持ってきたTシャツを出してくれ!」
藤原の仕切りでダサTグランプリが始まった。
開始するや否や、参加費を入れる空き缶に百円を放り込んでロッカールームを退出しようとしたのは荒北だ。
「オレ、ダセぇ服なんて持ってねーし、実家にも帰ってねーから棄権」
一声かけるようになっただけでも進歩といったところか。去年までの荒北なら無言で部屋から出て行っただろう。もちろん今回は意外にもフクが乗り気な様子を見せていたから企画を全否定するのも気が引けたのかもしれないが。
そのフクは「チャリで来た」というネットで有名なフレーズがプリントされたTシャツを持ってきた。親戚からもらったもののあまりにもの字のヘタさにどうしていいかわからず、かといって捨てるわけにもいかず困っていたらしい。とはいえグランプリというからには優勝を狙うと意気込んでいる。
「オレも持って来たんだ。弟から絶対に人前で着るなって言われてるやつ」
楽しそうに紙袋からTシャツを取り出そうとする隼人を全員が止める。見なくても優勝の気配がするのを誰もが感じている。隼人が優勝するとこの企画の趣旨が根底から揺らいでしまう。
隼人から紙袋を取り上げ、開けることなく部員のTシャツ披露が続く。オレはもったいぶるほどのものでもないので真ん中くらいの順番で披露した。微妙すぎるラインに周りの反応も薄かった。
評判が良かったのは女性の裸が全面にプリントされたもの。ダサいとか以前に「隼人に着せたい」というノリで。着るとその部分だけ女性に見えるというギミック。
しかしグランプリに選ばれたのはラ◯◯イブ!というアニメのキャラクター10人くらいがびっちりカラーで全面にプリントされたTシャツだった。さすがの隼人でもこれを着ると「顔のいいアニメオタク」に見えてしまう。「アニメオタク」の要素が強くて、ダサいというか非常に残念な感じになった。
そのTシャツを持ってきたラ◯◯イバー小堰は優勝は嬉しいけどよく考えたら複雑だと零していた。
「あれー、皆さんまだ着替え中だったんですかー?」
挨拶もせずに入ってきたのは一年の真波だ。ロッカールームは暗黙の了解で学年別に使ってるようなもんだが、この空気を全く読まない新入生には関係ないらしい。
「あはっ、新開さん変なかっこー。てゆーか、なんで皆さん変なTシャツ手に持ってんですかー?」
そう言いながらオレの近くまで来ると、真波は目を輝かせながらオレの手の内にあったTシャツを奪い取った。
「東堂さん!いいですね、これ!かっこいい!」
顔の前で広げると「空」の一文字。前面しか気にしてなかったけど背中にはこの一文字だけが大きくプリントされていた。なるほど、一切は空で、度一切空だ。
「高い山の頂に登ると、自分の周りには空しかないんですよ。だから空と頂は親戚みたいなもんなんです」
かっこいいなんて言われてしまったからにはオレはこの企画的に最下位確定だ。もちろんそれを悔やしがるいわれもないが、なぜか急に誇らしいような気にすらなった。
「東堂さんこれ着て走ってくださいよー。そしたらオレ、いつも頂にいる感じじゃないですか。ずっと上にあった空がいつのまにか足下にあるんです」
実家で手にした時からずっと宗教的な概念に見えていた一文字が、真波にかかれば極めて現実的な風景に変わってしまった。おまけに真波に語らせるとなんだか欲の塊にすら思える。でもオレには真波が感じた「空」が一番身近で心地よいものに思えた。
「それはできん。気に入ってるならこれはおまえにやる!」
「えー、いらなーい」
退散とばかりに部室から出て行く真波に突き返されたTシャツを眼前で広げ、金で書かれた一文字を凝然と眺めた。