【E03】うつせみの空

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 ツクツクボウシが、鳴いている。
「なぁなぁ、段竹、いいだろ?」
「よくない。まず自分でやれよ」
「だってよぉ、夏休み全っ然休みじゃなかったじゃんか、オレら」
 それはこちらも条件は同じだろう、そう返そうとして口を噤んだ。
(同じじゃ、なかったか)
 カラカラと、車輪が回る。時折反射したオレンジ色が目を刺して、目の奥が痛くなる。
 残像の残る視界で、急にすぐ横にいるはずの声の主がやけに遠く見えた。
 
「オレ、決めた! 志望校!」
 ちょうど昨年の今頃だっただろうか、遠慮の欠片もなくキラキラとした顔と声で部屋に飛び込んできたかと思うと、椅子代わりのベッドの上で何度かバウンドしながら興奮した声がそう告げた。
「おい、そこで開けるな」
「だーいじょうぶだって! それより、志望校! 決めたから!」
 ペットボトルの中の黄色がかった炭酸飲料は泡立っていて、あと何度か跳ねたら開けた拍子にでもこぼれそうで、思わず眉が寄った。しかしそれに構う様子はなく、炭酸が抜ける勢いの良い音と共に青いキャップを開けると、案の定白い泡が噴き出した。
「……だから言っただろ」
「悪ぃ悪ぃ……っと」
 行儀悪く泡を啜りながら一切悪びれない様子に、何滴かがタオルケットに吸い込まれたのを咎めることも諦めて溜息を吐いた。こんなことを注意したところで改められるものならとうに直っている筈だ。
「それで? やっと決めたのか」
「おう。総北にする」
「……お前、内申大丈夫なのか? 確か……」
「あーっ! それ言うな! そう、超ヤベーんだよ。だから段竹に勉強付き合ってもらおって」
「……俺だって、別にできるわけじゃないぞ」
「人に教えるとできるようになるっていうから、トクベツにオレでそれやっていいぞ。感謝しろ」
 あくまでも自分を優位に立たせる言動、そしてどうだとばかりに胸を張り向けられた笑顔は窓から入る夕陽の色をしていた。
「段竹も、同じとこ行くよな?」
「……一差がそうするなら、そうだな。自転車も強いし」
「強いなんてもんじゃねーよ! 優勝だ! ……あっそーだ、これ、土産」
 忘れてただとか言って、ポケットから引っ張り出されたのは日本人なら誰もが知っている山型のキーホルダーで、やけにガチャガチャとうるさい音を立てた。
「富士山?」
「インハイ見に行った」
「へえ」
 そういえば、一週間程前だったか、夏休みになってからというもの受験はどうしたのだと思う程毎日のように断りもなく訪れていたこの幼馴染が三日ばかり来なかった時期があった。家族旅行に行っている訳でもないのは他のきょうだいに会ったから知っていたが、その用事が今漸く理解出来た。そして、この土産はその時からずっと渡すのを忘れられていたに違いない。
「去年も広島行ったの知ってんだろ? あれはなんか親父の出張のついでだったけど、今年は自分で行った」
「インハイ、出たいのか」
 中学の部活には自転車競技部が無かったから、ずっと学校外のチームに所属していた。社会人のレースにも出ていたから、不足はない筈だ。ただ一点、インターハイというものに出場する選択肢が無くなるというだけで。
「三日、寝れなかった」
「は?」
「出たくて出たくて。絶対出たい。こんなレース初めてだ。だから出る。来年だ」
「……その前に、入試だろ」
「だーかーらー頼みにきたんじゃんかぁ。
 ……とりあえず、宿題見してくれ。そっからだ」
「……まず自分でやれ」
 欲しい玩具を強請って梃子でも動かない幼いこどものような駄々にどうせ負けるのだ、そう思いながらも取り敢えず口にした正論に、早速抗議の声が上がった。
 
 友達だから、という理由だけで同じチームで走れるわけではないとは理解していた。強豪校ゆえ、選考に漏れることは大いにありうる話だと覚悟もしていた。それは、中学生時代に所属していたチームで走っていた時もそうだった筈だ。だが、運が良かったのだろう、ずっと二人で走っていたと思う。それは社会人が多く、こどもだからと二人セットで扱われていたからだったのかもしれない。もちろん、相応の実力をつけるための練習を怠ったつもりはない。だが、一緒に走っていて誰よりも痛感している。
 彼は天才である、と。
 末っ子という育ちゆえか、単純にそう言ってやると調子づくという以上に、言葉通りの意味で、天才なのだと思った。自分には敵わない、何かを持っている。勝負強さ、身体的能力、そして時に見られることを嫌うが地道な努力も欠かさない。天才だから努力なんてしないと嘯いているが、その実愚直なまでに繰り返しの練習をしていなければ、到達できない地点にいるのだ。そして結局それが透け見えているあたりが、持ち前の単純さの顕れでもある。
 思考や行動は自分だけでなく同年代と比べて明らかにこどもじみている。すぐに拗ねるしはしゃぐ。代わりに素直で無邪気だ。
(可愛がられただろうな)
 時に生意気加減に呆れている様子ではあったが、二年三年のメンバーも結局は世話を焼いてくれたのだろう。そして、実力も認めた筈だ。
 そうすれば、自分でなくとも背中を押してやれるのだ。
 そう気付いたのは、インターハイの予選で一位を獲ったと聞いた時だった。あの日、出場者とマネージャ以外は公欠にならずに通常通り出席した授業にも身が入らないまま、ずっと心配していたのだ。
 緊張していないと言いながら腹痛に悩まされていないか、怪我はしないか、メカトラはないか、考えれば考えるだけきりがなかった。
 結果は出た。最高の結果だった。
 勿論喜んだ。友人が、望んでいたものを手に入れられたのだ。そうしない理由など無かった。
 だが、同時に遠くの事に思えた。
 初夏の教室で初報を聞きながらふと見た植え込みの枝に、まだその声は聞こえないセミの抜け殻がひとつ、残されていた。
 
「お、みっけ!」
「……なんだよ」
 放り出した自転車を受け止めながら、唐突な行動に眉を顰める。
 空は相変わらず眩しいオレンジ色のままで、そういえば、今日は随分早い帰宅だと思う。
 インターハイに出場するメンバーとそれ以外では練習メニューが違うから、と夏休みになってからは殆ど一緒に帰る機会が無かった。だから二人で同じ道をダラダラと喋りながら帰るのも久し振りだった、と気付く。
「おい、一差、なに……」
「見ろよ、これ!」
「……またか」
 随分注意深い手付きで街路樹の枝に触れていたかと思うと、次の瞬間誇らし気に目の前にかざされたのは、空の色より少し濃い抜け殻だった。昔からこういったものには目がないし、確か自宅には今でも虫かごで飼っているカブトムシだったかクワガタがいる筈だ。どちらだったかは忘れた。小さい頃は虫捕りにも何度も付き合ったが、自分自身は既に興味を失って久しいし、最近はそんな時間も無かった。
「またか、って。キチョーなんだぞ」
「何がだよ」
「わっかんねーかなぁ。男のロマン、ってやつ」
「小学生の間違いだろ」
「男はずっとコドモっていうし!」
「お前はもうちょっと……いや」
「んだよ」
 支えていた自転車を渡すと、また車輪がカラカラと回り出す。見付けたばかりの宝物を壊さないようにと片手で押しているから家までもう少し、時間は掛かるだろう。
「そのままで、いい」
「だろ? で、さっきの話だけどさぁ」
「駄目だ」
「いいじゃんか、宿題くらい」
「まずは自分でやれって」
 言いながら、結局折れてしまうのだろう、そう思った。
 低い羽音と共にちいさな影が、横切った。
「あ、ツクツクボウシ!」
「よくわかるな」
「この時期それしかいねーじゃん。オーシーツクツク、って」
 自分でやっていて楽しくなったのだろう。暫くその鳴き真似は続き、飽きた頃にはそろそろ東の空は藍色に近付いていた。
「じゃーな!」
「ん。朝練遅刻すんなよ」
「しねーし。そうだ、段竹にはトクベツにコレをやる!」
 手を出せと促されて、何が起きるか直ぐに理解したが、溜息と共に掌を上に向けた。
「この夏最後、かもしれない超レア抜け殻だ! 感謝しろ」
「……そうか……」
「じゃっ、また明日!」
 片手に自転車、片手に抜け殻を持っていては、飛び立つように自宅へ向かっていく背中に手を振ることも、出来なかった。
 遠くでツクツクボウシが鳴いている、そんな気がした。

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