【E02】ゆびきりげんまん

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 その空色のバイクは寿一が始めて手に入れた自分のロードバイクだった。
 
 福富寿一は四歳のときからロードに乗っている。寿一は父がプロのロードレーサーという恵まれた環境であったので福富家にはロードバイク及びそのパーツがたくさんあった。そして、歳の離れた兄も早くからロードにのめりこんでいた。父は不在であることが多かったので寿一が最も憧れた身近なレーサーは兄だった。兄は寿一のヒーローだったのだ。
 
 福富家は母の生家である秦野に住んでいた。ここが昔ながらの大きな屋敷だったことも大きい。使っていない離れを改造して並べられたロードバイクは下手なバイクショップより品揃えが多かった。
 もちろん体身体に合わせてすぐに調整をしてもらえたし秦野はロードに乗るにはもってこいの環境だった。人も車もさほど多くはなく、走りやすいところだ。有名な峠もあり山道には事欠かない。平坦だって、少し走れば海岸沿いも走ることができる。多様なコースの中で寿一はのびのびとロードバイクに乗っていた。
 
 
「そろそろ寿一も自分のバイクを買うか」
 寿一が中学一年生ときレースを観戦した父がその日の夜、家族で食事中になにげなく言った。好きなものを頼んでいいからと言われてデザートメニューとにらめっこをしていた寿一は身体を硬くした。
 
「いい」
「なんでだよ、寿一。ずっとオレのお下がりだったろ?」
 兄はそう言うが寿一は口を引き結んだままだ。
「寿一、兄ちゃんいつも言ってるだろ。自分の気持ちは伝えないと相手にわかってもらえないんだぞ」
「……兄ちゃんのバイクの方が速く走れるから」
「そんなわけあるか。今日寿一が優勝したのは寿一が速かったからだ。寿一は才能あるんだ。それに 毎日バイクに乗るなんて約束したって言ってもなかなかできることじゃない」
 
 まだ小学生だった頃、寿一は兄と約束をした。寿一はそのとき兄が乗っていた空色のロードバイクにどうしても乗りたかったのだ。まだ早いと言われたのだが末っ子の特権を利用して寿一はついにそのバイクに乗ることになった。
 そして、ひとつ約束をしたのだ。
「寿一、いいか? これはお前にやる。でもちゃんと練習するんだぞ」
「わかった。毎日乗る」
「はは、毎日じゃなくてもいいよ。じゃあ約束、な?」
「うん、約束」
 寿一は兄と指切りをした。その頃、寿一の練習態度にはむらがあった。あまり練習をせずとも年代別のレースに出れば勝ててしまうのだ。ロードバイクの性能というアドバンテージのせいか、兄が言うように寿一に才能があったからかはわからない。
 
 寿一はそれから本当に毎日その自転車に乗った。雨の日も風の日も風邪の日にも。今日はやめておけと言われてもこっそり抜け出して自転車に乗った。空色のバイクに乗ればあのかっこいい兄のようになれるような気がした。と寿一は母にこっそり伝えたのだが次の日には兄はもう知っていた。
 
 そして寿一は中学生になった。最近どんどん身体が大きくなる。身長もだが筋肉もついてきた。兄のお下がりのバイクがきしむことがある。わかってはいたのだが寿一はこの自転車に長く乗っていたかった。
 
「なぁ寿一、そんなに気に入ってるなら同じの買ってもらえよ」
「でも」
 それでは違う。
「じゃあ、兄ちゃんが今乗ってるバイクがいい」
「駄目だ」
「どうして?」
「……どうしてもだ」
 いつも理路整然とした答えをくれる兄が今回に限っては歯切れが悪い。
 
「あら、このアップルパイおいしいわね」
「お母さんひと口」
「お父さん自分で頼んだらいいでしょう」
「お母さんが食べてるのがうまそうに見えるんだが」
「気のせいです」
 父と母は兄弟の会話に口を出さないつもりのようでいつものように仲睦まじかった。
 
「寿一、兄ちゃんは……。いや、ずっと言ってるだろ。お前には才能がある。お前は強いんだから」
 いつもは寿一に甘い兄が一歩も引かない。噛んで含めるように言われて結局寿一は新しいバイクを買ってもらうことなった。
 他人から見ればうらやましいと思われるかもしれないが寿一は不安だった。兄の空色のバイクに乗っていればどこまでも進める気がしていた。誰よりも速く、いちばん最初にゴールに飛び込むことができるのだと。
 
 結局寿一は同じ空色のバイクを買ってもらった。兄はなにか言いたそうだったが結局なにも言わなかった。ただ「ピカピカでかっこいいな」とだけ言って笑った。その頃兄は箱根学園を卒業して東京でひとり暮らしをしていた。
 箱根学園にいた頃はあんなに秦野に戻ってきていたのに大学生になってしばらくしてから兄はほとんど家に寄り付かなくなった。それでも寿一がレースで勝てば電話がかかってきたし負けたとしても電話で話を聞いてくれた。つまり寿一のレースは気にしくれているということだ。
 寿一は兄に会いたかった。一緒にロードに乗りたかった。どれだけ速くなったか見てほしかったのだ。
 
「兄ちゃん!」
「寿一、どうした? なんかあったのか?」
 寿一は休みの日に突然兄の部屋を訪ねた。
「兄ちゃんとロードに乗りたい……と思って」
 
「そうか、あがりな」
 兄は目を伏せて微笑んだ。
 あがらせてもらった兄の部屋は様子が変わっていた。なによりそこにはあるべきものがなかった。前には確かに正面の壁に引っ掛けてあったロードバイクがなくなっていた。寿一は振り向いて兄を見つめた。
 
「兄ちゃん、バイクは? メンテ中?」
「……寿一。兄ちゃんな、ロードやめたんだよ」
「……どうして?」
 寿一はロードがやめられるものだと考えたことがなかった。もしレースに出なくてもロードには乗れるはずだ。一生傍らにあるはずのものがない。この部屋は寿一にはおそろしくてたまらなかった。
 あんなに自転車が好きだった兄そんなことを言うだなんて。これは兄ではないのかもしれない。寿一は思わず後ずさった。
 
「嫌われちまったな」
 寿一は頭を振った。兄を嫌うことなどある訳がない。自転車を嫌いにならないように兄を嫌いになることなんかないのだ。大好きな兄が大好きなロードを嫌いになったのだ。寿一は自分の感情に押しつぶされそうだった。
 
 寿一の身体が傾くと、細身ではあるが身長が高い兄が寿一を抱き止めた。
「ごめんな。寿一。俺は才能がなかった」
「……そんなこと、ない。にいちゃんはつよい」
 寿一がしゃくりあげながら言うと兄は少し笑ってくれた。
「ありがとな。寿一は約束覚えてるか?」
 寿一はコクリとうなずいた。
「まもってる」
「やっぱり。まだ守ってたんだな。寿一、やっぱりお前は才能がある。天才だよ。俺は辛くなっちゃった。道が続いていることが怖くなったんだ」
 
 寿一には兄の言っていることの意味がわからなかった。それでも兄がロードに乗ることを辛く思っているのならば無理強いはできないのだと思った。
 
 秦野に着くまで我慢していた寿一の涙腺は家に着いて再び崩壊した。母は兄のことも、寿一がこうなることも知っていたようだ。
「寿一。お兄ちゃんね、寿一に嫌われるのが怖くて言えなかったんだって。寿一はロードに乗ってないお兄ちゃんは嫌い?」
「にいちゃんはにいちゃんだ」
「そ。よかった。言ってあげてね」
「にいちゃんはオレのこときらいかな」
「どうして?」
「にいちゃんがきらいなロードに乗ってるから。だから家に帰ってこないの?」
「寿一がロードに乗ってないお兄ちゃんのことが好きならお兄ちゃんだってロードに乗ってる寿一のこと好きだと思うよ。本人に聞かないとわからないけど。聞いてみたら?」
「こわいからいやだ」
「そう。お兄ちゃんは最後になんて言ったの?」
「もう、やくそくまもらなくていいよって」
 
 駅まで送ってくれた兄は改札を通る寿一に向かって叫んだ。
「寿一! もう約束は守らなくてもいいからな! お前が乗りたいときに乗れ!」
 寿一はその言葉すら悲しくて振り返らずに電車に乗った。
 
「寿一は今自転車に乗りたくないと思うことはないけど、そんな日がいつかくるかもしれないね。そしたら約束が重荷になるからお兄ちゃんはそう言ったのかも」
 
 そんな日がくるはずがないとそのときの寿一は思っていたのだ。
 
 そして高校二年の夏のある日、寿一は初めて約束を破った。
 
End

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