【D03】だって彼は、

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『××ロードレースはまもなくスタートいたします。選手の皆さまはスタート前にお集まりください……――』
 
 頭上に、綺麗に乾いた空が広がっている。
 顎の下でメットのバンドを留め、グローブを嵌める。全部の準備を終えたことを確認し、彼は大きく頷いた。
「……よし! 頑張るぞ……!」
 ぐっと拳を握る。昨晩隅々までメンテした愛車のハンドルを撫で、彼は意気揚々とスタート地点へ足を向けた。
 からからとペダルが空回りする音がする。
 スタート前はすでに準備を終えた選手でひしめき合っている。あたりをきょろきょろと見渡すと、彼はなるべく前の方の空間に陣取った。先頭とは言えない、しかし後方とも言えない場所。ここならレース中もいいポジションを確保しやすいはずだ。
 レースはスタート前から始まっている、なんてことを言っていたのは誰だったか。血のにじむような練習はもちろん、愛車のメンテナンスやドリンクの補給、スタート前の位置取りまで。インハイのように出発順が決まっているレースは関係ないが、こういう公募制のレースでは意外とそんなことがものを言ったりする。だから、そんなところから気を払っていくのが大事なのだ。そう教えてくれたのは、今年キャプテンになった先輩だった。
 その時だった。
 ざわ、と背後の空気が揺れる。……どうしたのだろう。首を傾げた瞬間――ふと、いきなり空が陰ったような気がした。
「…………うん?」
「あァ? ――ンだテメェは。どけ、邪魔だ」
 ぬぅ、と巨大な影が彼の上に落ちる。
 いきなり真横に現れた男に、彼はぽかんと口を開けた。優に二回りは大きい体躯に、毛先があちこち飛び跳ねた緑の長髪。ぎろりとこちらを見下ろす顔はやけに凶暴だ。
 ――纏ったジャージには、「箱根学園」と記されていた。
 
「……ハコガク……!」
 
 ひっ、と短く息を飲む。それを箱学の名への恐怖と捉えたか、それとも男自身への恐れと捉えたか。男はにたりと凶悪な笑みを浮かべた。三白眼がこちらを見下ろす。ハン、と高慢に鼻が鳴らされた。
「……テメェ。そのジャージは……だが見たことねェ顔だな。ハ、さしずめ補欠選手ってとこか? ちょうどいい、せいぜいチギられねェように頑張れよ」
「え、……えっと……!」
 ぎゅっと愛車のハンドルを握る。
 バカにされた。そうと分かって、意識して呼吸を繰り返す。……がんばらなきゃ。心中で小さく呟いた。もう一度だけハンドルを握り、きっ、と顎を上げる。小心者の心臓が忙しなく体中を駆けずり回り始めたのを堪えながら、馬鹿にしたように見下ろす目を彼は真っ向から見返した。
「ボクは……!」
 ――と。
 
『五秒前! 四、三、二、一、――――ゼロ! レーススタートです!』
 
 パァン、とスタートラインの先で空砲が鳴る。
 途端に動き出した集団に、彼は慌てて右のクリートをペダルに嵌めた。空転するペダルを踏みしめ、なんとか左足もクリートを嵌める。途端に速度を増したロードバイクに、よし、と彼は少し胸を撫で下ろした。幸いなことに、まだ集団の速度はそれほど上がっていない。随分後れを取ったが、中ほどに位置付けられたのは悪くない状況だった。
「そう言えば……」
 さっきの箱学生はどうしているんだろうか。ふと思い立ってあちこちをきょろきょろ見回すと、目的の姿はすぐに見つかった。自転車に乗っていても分かる巨大な体躯が、集団の随分先頭の方を走っている。……彼とほとんど同時に、つまり集団から遅れて出発したはずなのに、もうあんなに前にいるのか。既に数名出ている逃げ集団には加わっていないようだが、かなりいい位置につけている。巨大な図体に反して小器用な立ち回りだった。
 ――箱学のネームバリューは甚大だ。
 常勝王者、箱根学園。去年こそ千葉の総北に敗けたとはいえ、高校ロードレース界でその強さを知らぬものはいない。それは選手たちも同じことだ。彼だって、もちろんあの男のことは知っている。
 箱根学園が誇る二年生スプリンター。その常人離れした体躯と筋力で前を走る獲物を圧倒する巨大な『道の怪物』。
 風の噂によれば――今年のインターハイ出場メンバーの、有力候補。
「…………ッ、」
 歯を食いしばる。目を見開き、彼はぐ、とペダルを強く踏み込んだ。風が耳元で鋭く唸る。
 速度を上げる。
 周りの様子に注意を払いながら、彼はもう一度固く拳を握りしめた。
 
 
 
 
 彼が自転車と出会ったのは、もう随分前の話になる。
 乗り始めたのは四年前。だがロードバイク、というものを知ったのは更に前の話だ。父親の運転する車の真横をあっさり抜かしていった自転車に、彼は一瞬で心奪われた。絶対に『電動自転車』とかいうものだと思ったのに、父は笑って言ったのだ。いいや、あれはロードバイクだな。人間の力だけであんな速度が出せるんだ。しかしすごいな、自動車まで抜いていくなんて。
 ――人力。あれが?
 それからというもの、彼はロードバイクにのめりこんだ。ごねてごねてごね倒して買ってもらったロードバイクは、毎日自分でぴかぴかに磨き続けた。レースに出ることはそう多くなかったけれど、それでもちゃんと毎日乗り続けていたのだ。
 そんな彼だから、レースに出たことも何度かある。
 最初はそもそも完走することすら難しくて、何度かリタイアを繰り返した。それでもしばらく乗っていれば次第に体力もついてきて、レース中ずっといいペースを保って走り続けられるようにもなった。
 初めて完走した時は、それはもう気持ちよかったものだ。
 体中の体力全部を使い果たして、ゴールした時には全部空っぽになってしまったけれど。でもそれが気持ちよかった。自分にできる全力を使い果たして、なにもかも絞りつくして空っぽになって振り仰いだ空は、どこまでも綺麗に晴れ渡っていた。雲一つない、どこまでもつき抜けた青の虚ろ。自分の前にはまだまだ何人もの選手がいて、決して上位入賞できたわけでもなかった。それがなんだか無性に泣けた。空っぽになった自分の奥底からこんこんと湧き出す得体のしれない感情が喉奥までいっぱいに湧き上がってきて、それが妙に目頭を熱くさせた。
 あの時の感情が果たして何であったのか、今でも分からない。
 ただ、彼はレースに出るのをやめなかった。
 毎日毎日地道にロードバイクに乗り続けた。乗り終わったら、いつも自分の手で愛車をぴかぴかに磨き上げた。細身で綺麗で格好よくて美しい、自分だけのロードバイク。何度も何度も乗ったから次第に小さな傷は増えていったけど、それでもそれはずっと、他のどのバイクより輝いていた。
 やがて、彼は自転車競技部のある高校に入学した。
 そして。
 
 そこで彼は『天才』というものを思い知った。
 
 彼らは皆、仰天する程に強かった。同じ一年生なのに、実力も体力も根気も精神面もそして才能も、その全てを持っていた。三年生の先輩たちはどこまでも偉大だった。二年生の先輩たちも強くて、優しくて、同じくらい厳しくて。何より皆、彼よりも圧倒的に『勝ちたい』という意思を持っていた。
 入学したその年。
 他の一年生たちはインターハイメンバーに選ばれて、だけど彼は選ばれなかった。
 それに焦らなかった、と言えば嘘になる。だけど同じくらい、ああそうだろうな、とも思っていた。だって彼らは強かった。信じられないくらい、何度も度肝を抜かれたくらい、強かった。だから彼は他の同期や先輩たちとサポートメンバーに回って、一生懸命インハイで走る彼らを応援した。頑張れ。頑張れ。頑張れ。そう声を張り上げて、見てるこっちが泣きそうになるくらい必死に、彼らを応援した。頑張れ。勝て。頑張れ! 勝ってくれ!
 ――へんだなあ、と、思ったのだ。
 だってあそこで今走っているのは自分じゃない。なのになんでこんなに胸が熱くなるのだろう。まるで一緒に走っているみたいだった。車でずっと選手たちの先回りをして、補給に回って、声を枯らして応援する。ただそれだけのことにこんなにへとへとになって、なのにどうしようもなく泣きたくなるのだ。頑張っている彼らは格好良かった。必死に走っている彼らは、今まで見たことがないくらいうつくしかった。なによりも、誰よりも、他のどの学校の選手たちよりも強くて、格好良くて、美しい姿だった。
 だから、なのかもしれない。
 だんだんと、「一緒に走りたい」と思うようになっていたのは。
 サポートは大事だ。サポートがあるからこそ選手たちは十全の力を発揮できる。それはもちろん、頭では分かっている。心でだって、ちゃんと分かっている。
 だけど――彼は、一緒に走りたかった。
 あのうつくしい、つよい選手たちと一緒に走りたかった。彼らに選手として頼られ、重要な局面を任され、「お前がいてくれてよかった」と言われるような選手になりたかった。サポーターとしての仕事が嫌なわけじゃない。ただ、選手として対等になりたかった。強い男に認められたかった。彼が心底感服させられ、尊敬させられ、感動させられた彼らと、一緒に同じものを見たかったのだ。延々と長距離を走り続けるしんどさを、勝利の喜びを、分かち合いたかった。走って走って走って、最後にゴールするのが自分でなくたって構わない。ただ、勝者を称える歓声を聞きながら、ゴールゲートをくぐった先の空の色を、この目で見てみたかったのだ。心を掻きむしりたくなるような、どうしようもない、生まれて初めて抱いた切望。
 ――だから。
 彼は。
 
 
 
 
 どこかで獣の雄たけびが聞こえる。
 
「……あ……!」
 はっと目を見開く。集団の様相は既に色を変えていた。逃げ集団はいつの間にか集団に吸収され、牽制し合いながら速度をじわじわ上げている。誰がいつ飛び出すのか。ゴールに近づきながらそう微妙な駆け引きを繰り返していた集団の中で、先頭にいた一人が耐えきれずに飛び出した――その瞬間だった。
 箱根学園の銅橋が飛び出した。
「ブオオオアアアアアア!」
 空気がビリビリと震える。ただでさえ大きい銅橋が、その時は二倍にも三倍にも膨れ上がって見えた。猛烈に足がペダルを回す。彼の随分後ろにいたはずなのに、だからその顔が見えるはずもないのに、なぜかべろりと舌なめずりするのが見えた気がした。獲物を前にした肉食獣の顔。歓喜の目。
 信じられないほどに速い。
「オラァ! もっと走れ! もっと逃げろ! その全部――追い付いてチギって喰ってやるよ! ブハァ!」
 ぞっと背筋が粟立つ。――なんだ、あれ。掠れた声で呟いた。
 尋常じゃない威圧感。後ろから眺めているだけで怖気が立つような迫力だった。まさしく肉食獣。あるいは、それこそ猪だろうか。信じられないほどの巨体が、空気抵抗をものともせずに押しのけて進んでいく。山なら速度ダウンも免れなかっただろうが、ここからゴールまではもう三キロもない平坦ばかりだ。スプリンターである彼にとってはまさしく独壇場だろう。
 あんなもの、到底太刀打ちできない。
 そう思ったはずなのに――なぜか彼はギアを上げていた。ペダルが一気にぐんと重くなって、力いっぱい踏んだ。速度が上がる。踏んで、踏んで、踏み続けて、集団の先頭に躍り出る。肉食獣の瞳がこちらを振り向いた。
「…………あァ? ァんだテメェ――ブハ! テメェも食われに来たか!?」
「っ…………!」
 喉が干上がる。見る間にスタート前の恐怖が蘇ってきて、彼はごくんと喉を鳴らした。にたりと笑う唇がこちらを見下して笑う。到底同じ人間とは思えないような迫力。
 ――なにやってんだろう、ボク。
 ふと、泣きたい気分でそう思った。……だって、箱学だ。そりゃあ同じ二年だけど、自分と彼じゃどう足掻いたって勝負にもならない。そんなこと、走る前から分かっていた。そもそも自分はスプリンターじゃないのだ。専門職とそうじゃない人間の瞬発力の差なんて言うまでもない。自分の勝ち目なんて全然ない。きっと自分は食われる側だ。銅橋が言ったように。
 それでも。
「……負けないよ、ボクは」
 彼の後輩は、きっとこの男と、インターハイで戦うのだ。
 三年生となった先輩たちと、今年も出場することになった同期たち。そして、天才を自称する一年生の後輩。彼らはきっと、インターハイで銅橋と矛を交えるのだ。身震いするほど強い、この圧倒的な男と。
 この数秒だけでも分かる。銅橋は強い。インターハイに出るという噂も、きっと間違っちゃいない。
 なら。
「ボクは、強くないけど。天才じゃないけど! ……でも、逃げないよ。戦うって決めたんだ。あいつらが戦うのに、ボクだけ逃げてられない。――だってボクは、」
 少しでも、銅橋の情報を持ち帰るのが彼の役割だ。
 少しでも。僅かでも。勝てなくても、チギられても。自校の勝利のために、銅橋の情報を持ち帰る。どんな風に走るのか。どんな風に戦うのか。常勝王者箱根学園、今年のインターハイ出場メンバーの有力候補。
 負けてなるものか。
 あの強い一年生が、あの優しくて強くて格好いい彼の同期が戦うのに――自分だけ、出場しないからって安穏に逃げてたまるものか。
 だって。
 
 
「ボクは――経験者だからね!」
 
 
「…………ブハ、」
 銅橋の目元が凶悪に歪む。直後、ぐん、と体格が増した。猛烈なスプリント体勢。露骨に速度があがる。凶暴な獣。なんて強い。なんて恐ろしい。
 こんなのと戦うのか、彼等は。
「おもしれェ。……いいぜ。ついて来いよ! 逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ! いくらでも逃げてみろ! それをオレが食い千切ってやる、引きちぎってやる、ブチ抜いてやる! そしてハコガクが最強だと、王者だと、そうここに証してやる! ――さあ、」
 
 
「勝負だ! 総北!」
 
 
 びりびりと空気が震える。歓喜の雄たけび。歯を食いしばり前に出る。速度を上げた。目いっぱいペダルを踏む。
 周囲の雑音が消え失せる。
 全身の毛穴が開くのがわかるようだった。ぼたぼたと全身から滝のように汗が流れ落ちる。心臓が早鐘を打ち始める。じわじわと、視界が端から白く焼けこげていく。
 背後から声が聞こえる。獣の声。笑声。絶叫。
「おっせェ! おせェぞ総北! そんなもんか、その程度か、去年オレたちを負かした総北はその程度か!? 逃げろ、もっと逃げろ、全身で必死こいて逃げ続けろ! 食ってやる。オレは負けねェ! 剥きだす、ハミ出す、全部、全部むき出して食ってやる! さあ――走れェ、総北!」
 はは、と、なんでか分からないけど笑いたくなった。なんだこれ。こんなのが、同学年か。なんて強いんだろう。なんて怖いんだろう。すごい。全身に鳥肌が立つ。恐怖と興奮。目眩のするような歓喜。そして――そこら中暴れまわって全身打ち付けたくなるような、そんな悔しさ。
 だって自分は、きっとこの男には勝てない。
 嫌でもそれが分かった。勝てない。こんなの勝てっこない。だって自分は天才じゃない。実力だって、きっと足りていない。知っている。分かっていた。もう一年前から、そんなこと、ずっと。
 だから悔しかった。
 だから泣きわめきたかった。
 だけどそんなことをしている暇はない。今はレース中だ。泣く分の酸素は体を動かすのに使う。泣く分の涙は汗に回せ。ゴールラインも潜り抜けていないのに、悔しがる分の情熱があったら、そんなものはペダルを踏む力に回せばいい。少なくともこの前はそうした。全身全霊の気力体力精神力全ての感情をただ、ペダルを踏む力につぎ込んだ。
 …………それでも、彼は負けてしまったけれど。
 だけど。
「負け、ない…………!」
 気持ちで負けてなるものか。
「ボクは、…………勝つんだ、」
 もう視界は半分役に立っていない。
 だけど、遠くにゴールゲートが見えた。黄色いバルーンゲート。残りはあとどのくらいだろう。そんなことをふと思って――目の前が白と青に遮られる。強烈な緑。左右に揺れて笑っている。
 抜かれた。
 そうと知って、なおも踏んだ。
「勝ちたいんだ、」
 頭の中から、他の全てが抜け落ちる。
 目を見開いて目の前の背中を凝視する。足がもげるくらいにペダルを漕いだ。腕が千切れるくらいにグリップを握った。腰はもうとっくにサドルから上げている。全力全開スプリント。全身バラバラのパーツになってどこかに消えていきそうだ。
 なのに背中は遠ざかっていく。
 白と青の箱学ジャージ。どんなに漕いでも、どんなに踏んでも、距離はちっとも縮まらない。もう出る汗すらない。足からどんどん力が抜けていきそうで、それでも意地と根性だけで踏んだ。
 ゴールする前から負けを認めるなんてこと、できるものか。
 視界が白く染まっていく。まともな呼吸をしているかどうかも怪しい。四肢の感覚はもう疾うに失せている。音が遠くに消えていく。燃え尽きていく視界の中で、ただ青い空だけがうつくしく網膜に焼き付いている。
「………………ボク、は、」
 視界のはるか遠くで、青と白のジャージが誇らしく天に腕を突き上げる。
 遠雷のような歓声。さざなみのような雄たけび。そうと知って、それでも踏んだ。勝負はもう決着がついた。だけどレースはまだ終わっていない。終わっていないのならば、踏まなくてはならない。ゴールするまで、レースは終わらない。だから踏んだ。踏んで、踏んで、踏み続けて。
 黄色いバルーンゲートの下を潜って。
「…………ああ、」
 ただ、空を仰いだ。
 どこまでも、ただ遥か遠くまで突き抜けた青空。空気は乾いていた。風が汗を攫って行く。どっと疲れが全身を襲い、なのにまるで嫌じゃなかった。初夏の甘い風の匂い。じゃああっと、他の選手が自分を追い越して減速する音。
 自分が全部空っぽになってしまったような、ゴール直後の独特な感覚。
 それが好きだった。ずっとずっと好きだった。やり遂げたあとの、なんにもない空に同化していくような感覚。それで満足していた。ずっと。この春前まで。
 だけど。
「…………くやしいなあ」
 ぴちょん、と虚ろに響く感情がある。
 空っぽだったからこそそれはひどく大きく反響する。洞窟に水が滴り落ちる音のように、それは何度も何度も反響して心の内を占めた。じわじわと胸の内を覆い潰していく。
「悔しい、な」
 だからぐいと目を擦った。青い空。雲の一つもないただ青いだけの空間は、だからちょっとくらい滲んだって分からない。それでいい。…………それで、いい。
「…………勝ちたかっ、た、……なあ…………」
 青い空が、ぐにゃりとおかしな風に歪む。
 まるで今の自分みたいだった。
 
 
 
 
 
 レース後。
 
「やあやあ、お疲れ! 銅橋くん!」
「…………あァ?」
 ぎろりとこちらを振り向いた瞳に、内心ひいっと震えあがる。本当に同学年なのかなあ、彼。ほんの少しだけ失礼なことを思って、彼はそれでも笑顔を保った。頑張れ自分。もうちょっとだけ。
「……ンだよ。なんか用か、総北」
「いやほら、レース後には健闘を称え合うものだろう? すごかったよ! 流石は箱学だ。ボクもね、頑張ったけどね、やっぱり難しいね、ロードレースっていうのは」
「…………それだけ言いに来たのか? テメェ」
 不興に銅橋の顔が歪む。あ、まずい。咄嗟にそう悟って、彼はぶんぶんと首を横に振った。ごめん、そうじゃなくて。早口で謝って、ごきゅんと唾をのむ。
 震え声で言った。
「――おめでとう」
「…………はァ?」
 凶暴な顔が訝しげに歪む。それでも構わなかった。ぎゅっと拳を握って、顔を上げる。
「キミは、すごく強かった。速かった。だからね、おめでとうって、言いに来たんだ。多分。勝者は称えられるべきだろう? ――優勝おめでとう。すごかった。……だけど」
 
 なぜだろう。
 ふと、昔のことを思い出した。
 
 初めてロードレースを完走した日のこと。とても上位入賞とは言えないような順位で、でも長距離を完走することのできた、初めてのレース。全部からっぽになるまで出しきることのできた、初めてのレース。
 あの日、彼はなぜだか泣いた。
 こみ上げる訳の分からない感情に突き動かされて、父親が運転する帰りの車に揺られながらわんわん泣いた。いくら涙を拭っても涙は溢れて止まらず、ただそれに困惑した。
 ――嬉し涙だと思っていたのだ。
 ようやく完走できたことに。ようやく大きな記録を持てたことが、嬉しかったのだと。出も違った。全然違った。そんなこと、本当は初めから知っていた。
 だって。
 
 本当は、ずっと、くやしかった。
 
 完走するだけじゃ満足できなかった。上位入賞したかった。もっともっと早く走りたかった。優勝したかった。表彰台の上に登ってみたかった。なのに自分はそんなこともできず、もがくように走って、ようやく完走する有様だ。くやしかった。ずっとずっとずっとずっと、地団太踏んで転げまわりたいくらい、悔しかったのだ。
 空っぽになってしまった中に、その感情はどこからか湧き続け、彼を満たした。
 だから、彼は走り続けたのだ。弱くても。遅くても。天才じゃないことを知っていても、ただ走った。空っぽになるたびに、少しずつ早くなるような気がした。レースの帰りにその空洞を持ち帰って、また走る。その度に少しずつ、少しずつ、色んなものを拾い集めては、また自分の中に溜め込んでいく。その作業が好きだった。それができるロードバイクが、ただ愛おしかった。
 弱くても、勝てなくても、辛くても。
 悔しいと思えることが、自分が選手である証のような気がしていた。
 だが、高校に入って――少しそれは、違うような気がしたのだ。
 チームで走るということ。自分が走らずとも、心が一緒に走ること。選手を裏方から支えること。同じチームの選手の勝利を心から祈り、走りの強さに泣き、勝利の嬉しさにまた泣くこと。喜びを分かち合うこと。昔の自分が知らなかった色んな感情が、自分が走ったわけでもないのにできた空洞に詰め込まれて、いっぱいに広がっていく。
 ――きっと、それは銅橋も変わりないのだろう。
 もちろん、自分と一緒にはできない。彼は強い選手だ。きっと見えている光景も、感じるものも、何もかもが違う。だけど、全てを出し尽くして走るのは同じはずだ。全てを出し尽くして走った後の充実感も、空虚も、きっとそう大差はないだろう。そう信じている。
 なら。
「……総北は、強いよ」
 必要以上に恐れることはないはずだ。
 どんなに強くても、どんなに大きくても、どんなに怖くても。それでも彼は同じ二年生で、同じ選手だ。総北が今年また対峙する敵。小野田が、鳴子が、手嶋が、青八木が、鏑木が、――今泉が対峙する敵だ。なら負けていられるものか。レースで負けても、心だけは。
 だって。
 自分だって、チーム総北の一員なのだから。
「負けないよ。……ボクは、今回負けたけど。それでも! 総北は強いチームなんだ。みんなで支え合って走り切るチームなんだ。負けない。絶対に! 今年も総北が勝つ!」
 その啖呵をどう聞いたのか。
 銅橋は存外に静かな顔をしていた。
 じっとこちらを見下ろし、やがてにいっと笑う。「そうかよ」と短く笑い、ぐるりと背を向けた。箱学の青いジャージ。自分から見れば、雲どころか空の上にある選手の背中。
「おもしれェ。その大言壮語が真実かどうか、インターハイで見てやるよ。――おい黄色。テメェ、名前は」
 後ろを向いたまま問われ、少し笑う。……ずるいなあ、とこっそり思った。そんな態度ですらサマになるなんて、本当に、強い選手っていうのは。
 だけど、彼の同期はもっと格好いいから、まあいいか。
 静かで熱くてクールな、今年の総北のエース。彼ならきっと銅橋に怯えることもないだろう。今日の空の色のような青いSCOTTを駆って、堂々と対峙するに違いない。
 だったらボクも胸を張って答えなきゃ。
 そう思って。
 彼は。
 
 
「ボクかい? ボクは、杉元照文。――総北高校の、七人目のインハイメンバーさ!」
 
 
 大きな背中が小さく笑うように揺れる。
 空は今日も綺麗に晴れ渡っていた。
 

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