【C05】空色の自転車

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『空色の自転車
      四年一組 福富寿一
 
 走っていく。
 空色の自転車が走っていく。
 空を目指して走っていく。
 重力を振り切り、てっぺんを目指すのだ。
 
 空色の自転車がゴールへ飛び込む。
 空へと飛び込む。
 自転車乗りは手を広げる。
 空色の自転車は、空とひとつになる。』
 
 
「あっ、ちょっと」
「ア?」
 部室前のラックから自転車を降ろそうとした腕を引かれ、荒北はチッと舌打ちしながら声の主をふり向いた。眉間に皺が寄るのはすでに反射だ。入部当初の経緯もあり、福富や新開以外の部員と荒北の折り合いはいまだにあまり良くない。東堂は態度をやや軟化させたが、根本的に性格が合わないので、雪解けは遠そうだ。解かすつもりもあまりないのだが。
 声の主はその東堂でも、福富でも新開でもなかった。鼻に散ったそばかすと、くっきり太い眉が目立つ。わーコワ、とあまり怖くはなさそうに呟いてから、荒北が手をかけた自転車を指さした。
「それさあ、オレの自転車なんだよね。アラキタの――っていうか、福富のはそっち」
 そっち、という言葉とともに、指は部室の扉を挟んで反対側のラックに動く。視線で追いかけ、荒北はゲッと声を上げた。福富からの借り物は気恥ずかしいほどの爽やかなブルーに黒いロゴが特徴的なバイクだが、
「ソックリじゃねェか! ややこしいんだヨ!」
「だよね~、まあ持ち主はわりとわかるもんよ、愛車だもん」
「イヤミかよ!」
 ペイントはもちろん、ハンドルに巻いたバーテープも同色で、サドルもどうやら同じものだ。双子のような2台を見比べ、荒北はガリガリと後頭部を掻く。目立つのが取り柄のバイクだと思っていたが、こんな罠があろうとは。
「ンどっくせ……」
「あはは、まぁまぁ。ほらここ、ステッカー貼っといたからさ、慣れるまでこれで見分けてよ。あとついでにオレも見分けて。今井っつーの」
 今井と名乗った男はケラケラ笑い、降ろした自転車を押していった。荒北も反対のラックに向かい、改めて借り物の自転車に手をかける。今日もひたすらローラーだ。
 
 
 
「あー、っと」
 自転車を降ろそうとして、荒北は手を止めた。屈み込んで確認する。ステッカーは……ない。
「ヨシ」
「どしたの?」
 頷いたタイミングで声をかけられ、のわっと仰け反る。ニヤケヤロウこと新開が口をもごもごさせながら、不思議そうに首を傾げていた。この男はだいたい何かを食べている。
「アー、確認してんだよ。バイク間違えっとウルセェだろ」
「確認? いる? 寿一のバイク、すげぇわかりやすくない?」
「そっくりの乗ってんヤツいんじゃねーかヨ! アレだ、えと、イマイ」
「そっくり?」
 不思議そうに繰り返され、荒北は唇を歪めた。キョロキョロと見回し、二つ隣のラックにかかった水色を見つけて、指を突きつける。
「だぁから! アレ! おんなじ色だろうがヨ!」
 言うのと同時、わはは! と笑い声を背後に聞いて、荒北はげんなりと肩を落とした。出やがった。
「隼人よコイツにそれを見分けろと言っても無理だぞ! 美的感覚の欠片もないからな!」
「ウッゼ……」
「だがいい機会だから教えてやろう、違うのだよ、色が! 今井のバイクとトミーのバイクではな!」
「アア?」
「論より証拠だ、見比べるがいい。借りるぞ今井!」
 声を張り上げたのは部室で着替え中の当人に断ったものらしく、うーいと声が返ってくる。東堂はラックから降ろした今井のバイクを福富のそれに並べ、おまえにわかるか? と言わんばかりにふふんと笑った。こうなると荒北も意地になる。二度三度と視線を往復させると、確かに微妙にだが色味が違っていた。どちらも緑がかった水色のペイントだが、福富のバイクのほうがわずかに淡く、より緑に近いように見える。
「…………色褪せェ……?」
 呟くと、今度は新開が声を上げて笑った。
「違う違う! そりゃ寿一のほうが使い込んでるけど」
「空の色だ。イタリアの」
 台詞の後半を引き取ったのは、部室から出てきた福富その人だった。そーそー、と並んで出てきた今井が相づちを打ちながら、東堂の手から愛車を引き取って愛おしげに撫でる。
「チェレステっつーのよ、このカラー。カッケーしょ。出た年によって微妙に色合いが違うんだよなー。いろいろ説あんだけど、ミラノの職人がその年の空の色見ながら調合するとかなんとか。オレはオレのビアンキちゃん大好きだけど、福富のカラーもいいよね」
「寿一の真似しようとしても売ってなかったんだろ?」
「ちっげーし! ほんと新開オレにだけキツいのどーにかなんない!? 確かにオレのが新しいけどさぁ!」
「ふうん? まあそういうコトにしとくよ」
「マージだって!」
「隼人おまえ本当に今井にだけ人格変わるな……。そういえば、オレの友人もトミーのバイクを羨ましがっていたぞ。そのカラーは入手困難とかなんとか」
「ああ、自転車屋の修作くん? レースで会ったことないんだよね、残念」
「アイツはおまえと走るのは遠慮したかったと思うがな……」
 荒北は目をしばたたいた。この喧しさはなんなのか。荒北を――正確には荒北の借りている自転車を囲んで、同学年の部員がワイワイと雑談をしている。こんなの、まるで仲間のようじゃないか。
「これが一番近かった」
 ぼそり、と呟いた福富に、注目が集まる。何にだ? と東堂が代表して問いかけた。
「初めて見たジロだ」
 
  *
 
 てなこともあったなァ、と荒北は懐かしく思い出す。あの頃から、荒北は少しずつ箱学の部員らしくなった。嫌われているというのは半ばは荒北の僻みで、ヤマアラシのように毛を逆立てていた荒北を周囲が扱いあぐねていたというのが実際のところだ。
 あのときピンと来なかった福富の言葉の意味も、いまならわかる。彼の憧れのかたちだ。初めて見たテレビ中継で、山頂ゴールに飛び込むビアンキ乗りの姿とイタリアの空の色が目に焼き付いたのだと教えてくれたのは、三年生になってからだったか。
 チェレステカラーのビアンキを、荒北は結局福富に返さなかった。一度だけ返却を申し出たことがあったが、自転車に飽きたら返してくれと言われて、そのままだ。
 荒北は、今日で一線の選手としては引退する。大学四年間を競技に捧げたが、仕事としてのレースを走る気にはなれなかった。空色の相棒もずいぶん長く寄り添ってくれたが、命を預けて走るのはおそらく、これが最後だ。
 スタートを待つ人並みの向こうに金色の頭が見える。声をかけることはせず、荒北はニヤリと笑った。闘志の高まりを感じ取ったのだろう、隣にいた荒北のエースが、チャッとアイウェアをかけ直した。肘と肘をぶつけて、気合いを入れる。
 イタリアの空を荒北は知らない。福富のように憧れたこともない。だが彼の自転車はとんでもないスピードで、こんなにも遠くまで荒北を連れてきてくれた。荒北にとっては、それがすべてだ。
 飽きるまで、つったなァ福ちゃん。悪ィな、一生返せそうにねェ。
 
 *
 
 そんな話をしたこともあった、と、福富は懐かしく記憶を辿る。
 大学生活を締めくくるレースが終わった。福富が満を持してアシストの背後から飛び出そうとした瞬間、空色のバイクが進路を塞いだ。敵対するには憎たらしい、いい選手になったものだ。
 福富は自転車の家に生まれた。走りたいと思うより前に自転車があった。イタリアの空に飛び込む空色のバイクは、世界に憧れた初めての記憶だ。
 荒北を乗せることにためらいはなかった。テッペン、と彼が叫んだとき、思ったのはあの空だった。
 今泉が小野田坂道の走りを評して、ロードレースの楽しみそのものと語ったことがある。福富にとっては、荒北靖友がそうだった。己が自転車に乗せた男が、チームの旗を背負い、まっすぐに前を睨みすえ、闘志をむき出しに勝利を狙う。それが心地良かった。チームが別れても変わりはしない。喰ってやると言わんばかりのあの目を向けられることは、この上ない愉悦だった。
 それも今日で終わりだ。
 荒北は走り追えた。福富は先へ進む。
 
 
 表彰式の後のごった返す会場で、福富は荒北を見つけ出した。歩み寄りながら手を挙げる。
 破顔した荒北が、同じく右手を挙げた。パァン! 小気味良い破裂音を立てて、手と手が打ち合わされる。
「見事な走りだった。荒北靖友」
「ハ! そりゃそっちもだ。コケんじゃねェぞ、福富寿一」
「ああ」
 ドン、と胸に押し付けられた拳から、熱い奔流が伝わる。
 傍らには、福富の憧れの具現が佇んでいる。
 
 

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