【B05】同じ空の下だから

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「あかん。ここどこや」
道路標示を見上げた。聞いたことのない地名ばかりで途方に暮れる。
ちょお走ってくるわと言い残して、家を飛び出した。財布も携帯電話も持たずに。
目的地なんてなかった。この感情をどこにぶつければいいかわからんくて、ひたすらペダルを踏んだ。ペース配分も、ペダリングも、ライン取りも今まで身につけたこと全部忘れて、ただ足を動かした。
やってもうたと後悔したのは神戸を越えて随分経ってからやった。国道に落ちていた小石でも踏んだんか、パンクしてもうた。
緊急時用のキットは置いてきた。修理しようにも金もない。そもそも自転車屋がどこにあるのかもわからない。交番で交通費くらいは貸してもらえるやろうけど、その辺に相棒のPINARELLOを放り出すわけにもいかん。
パンクしても自転車を走らせることはできる。せやけど、ホイールを履き替えたばかり。こんなんで歪めてもうたら、いくらワイでも立ち直れん。
「あーもう!男らしく歩けばええんやろ!」
自転車を降りて、今まで走ってきた道を引き返す。汗が出るほど熱を持っていた体が秋風で冷えていく。風邪引きそうやなと着ていたウィンドブレーカーのチャックを上げた。
「最悪やん。ホンマ何やっとるんやろ、ワイは」
下を向くと、自慢の自転車が目に入った。真っ赤なデーハーな自転車はいつもなら血湧き、肉踊る気分になるのに、今日はあかん。見ても何も思わん。
ため息をついていると、車のクラクション音がした。なんやねん、うっさいわと顔を上げると、コロンとした形の車が脇に止まっていた。
「おーい、そこの少年。メカトラか?」
助手席の窓を下ろして、オッサンが声を掛けてきた。スーツにネクタイで普通のサラリーマンみたいな服装やけど、やたらと眼光が鋭い。髪も明るくて長めだし、職業不詳年齢不詳のオッサン。タレ目でしゅっとしてる顔は女の子にモテそうやな。
「パンクっす」
「そいつは災難だな。家はこのへん?」
「大阪。歩いて帰ろ思うて」
「家に着く前に、深夜徘徊で補導されちまうよ。そこの角曲がったら公園あるから、そこで見てやる」
オッサンはそう言うと車のスピードを上げた。可愛らしいフォルムの割に騒がしそうなエンジン音を立てて走る車を見送り、呟いた。
「変なオッサンやな」
 
オッサンは公園の脇道に車を止めていた。スーツの上を脱ぎ、腕まくりしとる。シャツから覗く腕は日焼けしてて、傷跡がいくつか見えた。
「前輪?後輪?」
「後輪っす」
自転車を渡した。オッサンは慣れた手付きでタイヤを回し、パンク跡を見つけると、おーあったあったと無感動な声を上げた。
「これならパッチすれば走れんな。ちょっと待ってろ」
鼻歌を歌いながら、トランクから工具を出した。歌は確か世界水泳のテーマソングになったやつ。そういえばオッサン、ボーカルの人に顔が似とるな。
工具の中は自転車のメンテナンス用品が詰まっていた。ついでにオッサンは助手席からパワーバーとスポドリと古びたタオルを取り出してきた。
「これ喰って、汗拭いとけ」
「おーきに」
縁石に腰掛けて、オッサンが直していく様子を見守る。手際ええなあ。自転車用工具や補給を常備しとるって何者やねん、このオッサン。
「オッサン、自転車乗る人?」
「オッサンじゃねぇよ。コセキだ」
「コセキさん、自転車乗る人なん?」
「おう。昔はバリバリ乗ってた」
「バリバリってなんやねん」
変なオッサン。せやけど、筋肉の付き方からして本格的にやっていたのがわかる。腕の傷はもしかしたら自転車に乗っていた際に付いたのかもしれん。
「少年、この間の堺のワンデー出てただろ」
「え、コセキさんもいたん?」
「おう。知り合いが出てたから応援にな」
「へーよう覚えてはったな」
「その赤い髪にこのPINARELLOは忘れねぇよ。ゴールは惜しかったが、いい走りだった」
堺のワンデーは先頭集団に食い込めたが、最後の最後で競り負けて、2位だった。
「うちのチーム入らねぇか。本拠地は神戸だけど、大阪と神戸なんて大した距離じゃないだろうし、中学生も何人かいるぜ」
「へ?」
冗談かと顔を上げたが、オッサンは真剣な顔をしていた。
「うちのチーム、クライマーばっかでな。スプリンターいたら戦術が増えて助かるんだ」
「せっかくの誘いやけど――」
ワイの言葉にオッサンは肩をすくめた。
「まあ、大阪にだってチームはいくらでもあるからな」
「あ、いや、引っ越すねん。千葉に」
オッサンの細い眉がぴくりと動いた。
「千葉?」
「そうやねん。ってか、千葉ってどこやって感じやん。関東言われても全然わからんし、千葉のスピードマンなんて呼ばれてみぃ。ダサくて、屁ぇ出るわ。ホンマありえへん」
一息にまくしたてた。ずっと走り続けている間に頭の中で渦巻いていた言葉だった。
「でもな、オトンが栄転やー!って喜んどるし、オカンも弟たちも乗り気やねん。ワイだけが嫌がってんねん」
「で、何も持たずに飛び出してきたってわけか」
喜んでいる家族の前で、ワイは千葉なんか行かんとは言えんかった。懐いてくれとる弟たちと別れて大阪残るなんて我儘言えへん。
「千葉もいいところだぜ。サイクリングロードは多いし、ちょっと走るだけで山も海もある。ロード乗りには天国だ」
「せやけど、友達はおらん」
レースで知り合うた友達と大阪の同じ高校入って、インハイ目指そうなって約束しあったのに。ワイら2人組んだら無敵やでって話とったのに。
そう言い募ると、オッサンは口の片方だけ上げて笑った。
「ロードは高校だけじゃない。大学だって、社会人だって、一緒に走ろうと思えば、いくらでも走れる。その頃にさらに強くなった自分ってのを友達に見せればいいだろ。『ごっつう速うなっとるやん!』って友達も驚くぜ」
「――コセキさん、大阪弁下手やなあ」
「うるせぇ!」
「ん、でも、サプライズはほんのちょぴっとワクワクすんな」
「だろ?」
大人になって、背も伸びて、めっちゃカッコよくなったワイが、大学で友達と再開して走る姿を想像する。アカン。めっちゃ楽しそうやん。友達も驚いて、鼻血出んで。
千葉で密かに強うなっとる作戦、悪くないな。
話をしている間にもコセキさんは手を休まず動かしていたようだ。あっという間に修理を終え、自転車全体のメンテナンスも軽くしてくれた。
「こんなもんでいいだろ」
真っ赤なPINARELLOを受け取る。ええ色や。腹の底から熱くなる、炎の色や。
「ホンマありがとうございました。コセキさんおらんかったら、ワイ野垂れ死ぬとこやったわ。なんてお礼を言ったらええんか」
「はは。これに懲りたら、必要最低限の物くらいは持ち歩くんだな」
「以後気ィつけます。あ、そや。自己紹介まだやった。鳴るに子ども、文章に大吉で鳴子章吉。鳴子章吉言います」
「覚えておくよ。あ、鳴子。千葉の高校ならソウホク高校ってとこがオススメだ。今年の広島インハイに出ている」
「へー聞いたことないですけど」
「今年はインハイ20位くらいだからな。でも、来年はもっと強くなる」
「そんならワイが入ったら、鬼に金棒やないすか。優勝してまうわ」
「おう。期待してるからな」
千葉のソウホク。よっしゃ、覚えたで。
コセキさんにぺこりと頭を下げる。
「ほな」
「気をつけて帰れよ」
「はいな」
振り返るとコセキさんが腕を組んで、こちらを見ていた。手を上げると、コセキさんも上げ返してくれた。
行きよりも何倍も軽くなったペダルを踏んだ。夕日に照らされた道を駆けていく。
 
寄り道のおかげで予定よりも帰社する時間が遅くなってしまった。だが、楽しい出会いもあったし、後悔はなかった。
人気がないオフィスで事務仕事を終え、さて帰るかとパソコンをシャットダウンしようとしたが、OSのアップデートが走り始めた。やれやれ終わるまで帰れないなと、私物の携帯電話を操作する。ふと、時間を持て余してSNSを開くと、トップに出てきたのは千葉の浜さんの投稿だった。
今日はどうやら千葉づいてるらしい。あの土地特有の暖かな空気を思い出しながら開くと、そこにはほんの少し髪が薄くなった浜さんが入荷した自転車を紹介していた。その後ろに見えたのは、メンテナンス中のTREK。ふと勘が働いて、写真を拡大した。シンゴの自転車だ。間違いない。
浜さんとのやり取りでシンゴが総北高校に入ったこと、部長を任されたことなどを聞いていた。だが、改めてシンゴの自転車を見ると、まだあいつが自転車に乗り続けているのだなと実感が湧いてきた。
ふと、今日出会った鳴子を思い出した。千葉に行くのを嫌がっていた少年。
自分も神戸勤務が決まったとき、シンゴの成長を見届けたかったと悔しく思ったのだ。
だが、どんなに離れていたって、自転車に乗るのを諦めない限り、繋がっていられるのだ。同じ空の下で、ともに走った絆があるのだから。
拡大したTREKを指で弾いた。
「来年は優勝だな、金城主将」

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