【B04】五つ辻

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 夕焼け空の色が赤い。
 荒北は、一種異様なまでの夕焼け空の色に違和感を覚えなかった訳ではない。ただ、こんな日もあるのかと思いながら夕焼け空を見上げていたのだ。寮まではスクールバスが出ていたが、あの混雑が得意でなかったし、何よりも自由にロードに乗りたかったので専ら往復は一人だ。
 焼き芋屋の甘い香りと口上に馴染みの笛の旋律、豆腐屋の鐘とラッパ、遮断機が降りる警音、学童帰りの小学生の閉め忘れたランドセルの立てる金属音と笑い声。
 箱根の当たり前の夕方風景に、ふと、いつかの東堂の言葉がよぎった。
 
『「五つ辻」を知っているかね?』
 
 それは、何だったか。しばし考えるが思い出せない。数区画先を短い車両編成の電車がゆっくりと通り過ぎる。もう、思い出せそうな「すぐそこ」まで答えは来ているのに思い出せず、足元の石ころを蹴った。遮断機は上がらない。今度は下りの電車がゆっくりと走って来て、駅へと入線していった。
「アー、何だっけェ?」
 いつまでも遮断機は鳴り響く。電車はとうに乗客を排出して過ぎ去った筈だ。しかし、降りてくる客は一人も居ない。一種、異様な気配を感じて辺りを見回した。
 焼き芋屋も豆腐屋も小学生も、見渡せば硬直している。空を飛ぶ巨大な影のような烏の一群も天高く縫い止められたかのように虚空に張り付いてピクリとも動かない。
この世界で生きているのは、警報を鳴らし続ける遮断機と、巨大な赤い太陽に照らされた夕焼け空と、遮断機待ちでロードを押しているオレだけだった。
 恐ろしい程、赤い夕焼け空が箱根の街を支配している。
 あの時、東堂は何と言ったか。必死で思い出す。
 
『相手は妖怪でも魔物でもない。自然現象だ。虹と同じと考えればいい。意味も意図もなくそこに発生する』
 
 一呼吸置いてから、荒北は意を決して辺りを見回した。何差路かを確かめたのだ。努めて冷静に、一周回って数える。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
 先程とは、また別の色のため息をひとつ。
 どうやら、昔、東堂が語った「五つ辻」に迷い込んだらしい。
 ひとつだけ増えた辻が、どれか荒北には判断できない。いつも通りの道だ。だが分からないのだ。どの「辻」が「増えた辻」であるのか。それが分からない限り、この五つ辻からは出られない。消耗戦でゆっくりと咀嚼されるだけだ。
 助かる方法は、ほぼ無いと東堂は言っていた。そこに嘘はないだろう。
 東堂の家系は旅館の傍、「ひとならざるもの」を相手にすることを生業としていた。虹彩の良く分からないほど昏い目をしている東堂の目を覗き見ると、そんなものかと納得したものだった。
 
 カーンカーンカーンカーンカーンカーンカーンカーンカーンカーン
 
 遮断機の音が思考の邪魔をする。ふと携帯を見れば東堂からメールが届いていた。
 東堂だ。携帯は「生きている」。
『雪蛍寺で、「生きている」水を探せ』
 生きている水とは何だか分からないが、
「生きる手段がこれしかねーなら何だってやってやんよ!」
 ロードに跨り、雪蛍寺まで駆け抜けた。
 しかし、ようやく辿り着いた雪蛍寺の井戸は死んでいた。銭洗いの泉も、自慢の鯉が居る池も、死んでいた。
 ふと見れば、清めの水がちょろちょろと流れている。拍子抜けする程いつも通り、竹筒に開けた穴から水が適量飛び出している。試しに柄杓で掬い、左手、みぎて、口をゆすぎ、最後に柄杓を立てて柄を流す。
 いつも通りだ。これが「生きている」という事に間違いない。
 すぐさま返信を打つ。
「手とか清める水が生きてた!」
「すぐに行く」
 行くって?
 水を受ける水槽部分にぼんやりとした真っ黒い影が見えた。
 あちら側の東堂だ。非科学的な事がしっくりするほど今日の夕焼け空は人をおかしくさせる。
 
『掴め。引っ張るから、頭から水に突っ込んで来い』
 
 水紋すら立てることなく、手甲を嵌めた東堂の手が伸ばされた。荒北の脳裏に響いてくる東堂の声に従い無我夢中でその手を握り締める。水中へ引っ張られるのと同じ強さで地を蹴り、自らの意志でも水の中に飛び込んだ。
 水流の中、決して手を離さないようにしながら息継ぎを必死に我慢する。ザバッと音がして、担がれ、荒北は地面に転がされると盛大に咽た。鼻も喉も耳も目も痛いが、それどころではないところを助けて貰ったのだ。
「ぶはっ、げほっ、げほっ、うげええッ!」
 制服もカバンもなにもかもびしょ濡れだ。一体、ここはどこだと見回せば、少し前に来たことがある、東堂の部屋の裏手だ。何焼きだか知らないが、なみなみと水を張った巨大な甕(かめ)があったのが印象的で、何に使うのだろうかと思っていたが、こうしてその甕から引っ張り出されることとなったのだった。
酷く噎せこむ荒北の横で、装束姿の東堂がロードを引き揚げているのが見えた。「生きている」水を探すのに必死で、境内に入る際に乗り捨ててきた愛車だ。
「……あんがとねェ」
「全くだ。夕焼けの空の色になんだか胸騒ぎがしてな。箱根の安全確認していたら、まさかお前が五つ辻に捕らわれているところに遭遇するとは」
 迷惑そうに言いながらも、愛車のような手つきでビアンキを柔らかな布で拭いてくれている上に、どこに投げ出したかすら既に記憶にないヘルメットまできちんと揃っているものだから、荒北は本当に立つ瀬がない。
 
「風呂を貸してやるが、上がったら報告書作成と個人的データ収集の為のための聞き取りを行うぞ。寮には外泊を伝えておく」
「分かった」
 荒北は、用意された着替えの一式を手に、風呂に向かった。とにかくずぶ濡れなのだ。遠慮などしている方が迷惑がかかると分からない類の馬鹿ではない。そして東堂の目的も友人としての親切ではなく、研究対象として欲しかった情報収集なので、ギブアンドテイクの精神で良いらしい。気を使うなという、東堂流のもてなしなのかもしれないが、まだそれを理解し合える程の時間を重ねてはいなかった。なにせ、大人びた二人とはいえ、双方ともに高校一年生である。
 流石、老舗旅館とあって、内風呂も立派なものだった。突然の出来事に固くなっていた心が柔らかくほぐれて行くのが分かった。
「……怖かったよォ……」
 声に出すと実感を伴って、恐怖感と、安堵感の両方が主張を始める。どちらも荒北の本音だ。だが、東堂の手によって運良く助かったのだ。生きている。そしてこれから、「報告」によって恩返しができるという。それが荒北にできる唯一のことで、唯一荒北にしか出来ないことならば、全力でさせて貰おうと思うのだ。
「やすクン、頑張っちゃうよォ」
 そう言って、荒北は風呂場を後にした。
 報告書に関する質問は、実に短く十五分。簡略化されたアンケートだ。そして、東堂の探求心が落ち着くまで朝まで「赤い夕焼け空の世界」について、荒北は何度も何度も同じ話を繰り返すことになったのだった。一言一句漏らさず忘れないというように東堂はそれを聞いた。
 常にどこか彩度の落ちる東堂の昏い瞳は、蛍光灯の下でもはっきりそれと分かる、恐ろしいほどの透明感を持った深い青い瞳をしていた。光を弾いては瞳に星を宿す。荒北は、こいつは「こっち側」の人間なんだな、と、知り合って間もないながら初めて思い知った。
 同じ話を切り口を変えてする事数時間。荒北は空も白くなってから、翌日も朝練という事で一時間だけ睡眠をとる事を許されたのだった。その間も東堂は先程の話の書き物のまとめでもしていたのだろうか。荒北が目が覚めた時に、隣の布団を使った形跡は無かった。
 旅館と、不思議な力の仕事と、「次期当主」と、重いそれを平然と背負ってみせる準備は既に始まっているのだ。本当は、あの赤い夕焼けの空の下、遮断機の警音を聞きながら眠りにつきたいのは東堂なのかもしれない。ふとそんなことが脳裏をよぎる。
「おい、東堂ォ」
「起きたか。お早う、荒北。もうすぐ朝食の時間だ。制服に着替えるといい」
 荒北が見上げれば、知らないうちにプレスされたブレザーとズボン、シャツが掛けてある。東堂も制服を着込んでいた。
「東堂、お前さァ、「五つ辻」ん中に入りたいとか思ってンのォ?」
 東堂からの返事はない。肯定と受け取った荒北は言った。
「オレは守るモンもねーし、なりたい夢もねーし、でも、あん中に入って、チャリと、チャリ周りの奴らにまた会うためにぜってー帰るって思った。笑っちまうけど、すっげー命も惜しくなったヨ」
 「失礼致します」、と、女性の声がして朝食が運ばれてきた。普通の和食の、少しだけ料亭版だ。まだ音を立てているアジの開きが実に旨そうだった。
「……そうだったか」
 どこか苦しそうに、どこか悲しそうに東堂は笑った。朝日が差し込み、東堂の青く澄んだ瞳が輝く。
 荒北は、今まで気づかなかった東堂の抱える闇が、また赤い夕焼け空の色を欲してしまわぬように気を付けようと思いながら障子を開けた。光が部屋に満ちる。
「日本家屋もいいもんだねェ」
 気付かない振り、気付かない振りで光を取り込み、常に先回りして、知らぬ存ぜぬ。そんな関わり方もあるのかも知れない。昨日の礼に、闇は墓場まで持って行ってやる。
「命の恩人だからねェ」
 本日のカチューシャという、荒北にとっては限りなくどうでも良い物をじっくり選定する東堂の後ろ姿に零した。
「先喰うぜェ? 頂きます! 美味っ! おかわり!」
「大声を出さなくとも此処に、おひつがあるのだよ」
「ッセ! 分かってらァ! お前もさっさと喰えヨ!」
 荒北は赤面しておひつを奪い取った。
 
 ロードも人生もポジションは違えど、今日も明日もずっと先も、お互い全開限界を超えてペダルを回して、いつかお前があの夕焼けの赤い空の下、「五つ辻」に取り残される事があれば、何があってもオレが助けるから。
 それまでに「あいつの所に帰りたい」と思う「誰か」、ちゃんと見付けておけヨ。
「アジの開き、マジでうめーな」
 
 
(完)

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