【A05】『空』

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落車の衝撃で虚ろなまま自転車に跨がり、また走り出している。
並走してきたメディカルカーのドアフレームに捕まり、前進しながら治療を受ける。
右肩から背中にかけて擦りむき、砂だらけの裂けたジャージの隙間に消毒液をかけられる。ドクターがガーゼをあてがいながら、名前と出身地を言え、と急かしてきた。億劫だったが仕方なく答える。
 
ユウスケ マキシマ
Japon.
 
ドクターはまた大声で捲し立てるように質問を続けた。
チーム名は?親の名前は言えるか?よし、頭は打ってないようだ、肩は動かせるか?動くなら折れてはいないな、痛み止めは飲むか?
右腕全体に痺れがあったが痛みはさほど感じない。しかしそれもアドレナリンのせいだろう。取り敢えず痛み止めだけは貰い、メディカルカーを突き飛ばして再び前進し始めた。
 
自分の心臓の鼓動に今頃気づく。凄まじい音だ。耳の奥でこんなにもうるさい。
静まれ、静まれ、と呼吸を整える。
 
ラウンドアバウトで前の選手がスリップし、数名が巻き込まれた。アスファルトに倒れ動けない者や天に向かって叫ぶ者、ぺたりと座り込んで呆然とする者。
散乱した中から自分の自転車を見つけ、本能に従い走り出したのはうっすらと覚えている。腕の痺れはまだ治まらないままだ。背中の擦過傷に熱を感じる。
しかしそんなことはどうでもいい。早くプロトンに戻らなくては。俺にやれる仕事はまだ沢山ある。
ブエルタ・ア・エスパーニャ。一週目。
こんなレース序盤に脱落する訳にはいかない。
 
***
 
落車から数日は、痛みで寝付けない憂鬱な夜を送ったが、休息日を経てなんとか持ち直した。
今朝も黙々と朝食を食べていると、チームメイトやスタッフに、大丈夫か?と声を掛けられる。その度に、初日のチームTTよりはマシだ、と答えて失笑された。
タイムトライアルが不得手な俺にとっては、あの精神的苦痛に勝るものはない。チームもそれを分かっていて、常に最初に俺を切り離す作戦を立てる。せめて個人TTは全てを上りにしてくれとさえ思う。
 
パンのかけらに、好きでも嫌いでもないジャムや蜂蜜をどろりとのせて口に放り込む。そしてバナナと卵三つ分のオムレツ。
喉を通って、エネルギーになってくれさえすれば何だっていい。
ちらりと、斜め前に座る若いチームメイトを見た。初めてのグランツール。緊張は抜けたものの、そのかわり疲労の濃く残った目元をしていた。
やっと二週目に入り、レースは折り返しを迎えたばかりだ。三週目には更に地獄が待っている。
チームの年長者が珈琲を啜りテーブルをぐるりと見渡しながら言った。
しけた顔をするな、このジャージで走る最後のグランツールだ。幸いリタイアはいない、逃げられる奴は逃げて上れる奴は上ればいい。
もっともだ。自分たちプロコンチームには、ワールドチームのようなパワーは無い。ならば、最後まで目立ってなんぼ、だろう。
巻島はティースプーンでジャムを掬い口へ運ぶ。かつて後輩だった赤い頭を思い出してクハッと笑いを漏らす。
 
五年在籍したこのプロコンチネンタルチームは今季をもって解散する。三十路を迎えた巻島との契約をあと一年残したまま、ブエルタ直前に告知されたチーム消滅の決定だった。
 
***
 
二週目で痛め付けられ三週目。選手は皆出走前に散々回してウォームアップしたはずだが、やはりブエルタの山々は過酷だった。落車やタイムアウトも続出し、チームは三人のリタイアを出した。残り五人で最終日を目指す。
そもそもブエルタはコースプロフィールが信用ならない。
実際にレースが始まると、あるはずのない上りや下りが出現したりする。フラットと銘打つコースにもかかわらず上りゴールにするぐらいだ。スプリンターは首を横に振り溜め息をつくしかない。次の地のレースへ気持ちを切り替え、敢えて棄権する選手もいる。
チームメイトが何度も逃げにチャレンジしたものの、単独アタックを決めた地元チームのインパクトにかき消され歯痒い思いもした。
グランツールを幾度と完走している巻島は、不馴れな若い後輩を任されていた。幸い日本人である自分への偏見も持たず、純粋でいい奴だ。
せっかく雇われたチームから、一年と経たず消滅の宣告をされるなど思ってもいなかっただろう。
自分達のチームは、総合を狙える戦力もなくステージが獲れる確率も低い。ならば個々が出来る限りの走りをして経験を積み、爪痕を残すしかない。
なんせチームは消滅するのだ。注目を集めるグランツールで何かインパクトを残さなければ、来季プロの道を閉ざされるかも知れない。
 
さて。自分が後輩のためになにが助言できるのか考えてはみたが、結局走りで見せることしか思い付かなかった。申し訳ないと思いつつも、ティーンエイジャーの頃と変わらぬこの性格に頭を掻くしかなかった。
 
***
 
第二十ステージ。実質最終決戦のレースだ。
スタートラインで、今日も皆が無事に辿り着けることを祈る。
 
まずは三級山岳を越え、暫し上り基調の道を進み続ける。
ひとつめの一級コベルトリア直前に決まった二十名程の逃げの中に、巻島は運良く加わることができた。大人数の逃げは体力の消耗を抑えられる。
コベルトリアを越えると約十キロの下り。その時点で既に後方には、プントス着用選手を中心にグルペットが形成され、目標が明日のマドリードでのゴールに向けられる。
下りを終えた地点に謎のスプリントポイントが設けられていた。無論争うことなく逃げ集団はするりと通りすぎる。
 
そしてすぐにふたつめの一級コルダル。
上り始める頃には数名が千切れ、逃げ集団は分裂し、巻島を含む十人程のグループは先頭の逃げグループを追う展開になっていた。
巻島が辺りを確認する。表彰台を狙う選手の中にアシストを連れた者はいない。しかし、その内ロホを含む三名の有力選手は、先頭に同チーム選手を送り込んでいる。計算済みなのだろう。
案の定、失速して下りてきた逃げを吸収し、再びアシストを手に入れた選手達が加速しはじめた。
チェックも間に合わず、加速にもついて行けなかった者達が次々千切れていく。コルダルを越えて下る先頭グループは先へと消えていく。
巻島はひとり追走したものの、下りでアシストを要する先頭には追い付けそうもない。かといって、散り散りの後方に落ちることも望まなかった。
 
霧の向こうにそびえ立つ
神々の住む最高峰にして Il inferno
ひとりでも構わない。
 
***
 
超級アルト・デ・ラングリルが濃霧であることは事前に知らされていた。
登坂距離約十二キロ。前半六キロを過ぎ、残りは平均勾配十八パーセント。
霞む世界のなかで俯き、数メートル先だけを見据えてペダルを回す。無線はとうに耳から引き剥がした。背後に気配はない。無論前方も見えない。パーティションのない沿道から観客達が押し寄せているが、ただ黙々と掻い潜る。観客の振る旗が腕に絡み付きそうになったが、巻島は冷静だった。
 
上るにつれて霧が晴れてきた。途中、役目を終えオールアウトになった他チームのアシストを横目に通りすぎる。
残り三キロあたりまではダンシングで削るように上るも、最大勾配二十三パーセントに差し掛かる頃にはシッティングでただひたすら回すだけになる。
木々が生育不可能な森林限界のため、辺りはゴツゴツとした白い岩肌を晒していた。山羊しか上れないとも言われる道を、ペースを保ちながら這い上がる。
標高千五百超えの山で、不思議と頭の中がからっぽになっていた。下界に何もかも置いてきた気分だ。
 
ふと、空を見た。
 
小さな頃、飛び込んだプールの底から見上げた時。
あの時の揺らぐ色を思い出した。
天に近い地獄で、水の底を思い出すなんて。
 
「空。綺麗っショ」
久しぶりの母国語は、小さな吐息となって薄い空気に溶けた。
 
再び俯いてペダルを回し始める。
汗か涙かわからない雫がトップチューブに滴る。
かつての若さもなく、ひとつの勝利もあげられないままチームも消えてしまう。
言い表しようのない唐突に押し寄せてきた何かが、自身の内側を埋め尽くす。
 
もどかしい気分になる。
まあ、そもそも自分は感情を言葉に表すことは苦手なのだ。
考え込む暇があればペダルを回せ。
見てみろ、裕介。待ち望んだ山頂はすぐそこにある。
ああ、なんて素晴らしいんだ。
 
***
 
巻島は、難関ステージを自身最高位の第六位でゴールを果たした。
チームバスへ戻りクールダウンをし、後からやっと戻ってきたチームメイトに祝福された。
若い後輩は目を腫らしていた。年長者に、お前はまだ走り続けるだろう、と背を押される。
 
まあ、どこかのチームに拾ってもらえたらラッキーだが。
けれど、自転車に跨がって走れるこの身体さえあればそれでいいとも思った。
自転車は自由だ。
空はこんなにも美しい。

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