【A04】空になるまで

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自転車走行中、サドルの下に伸ばした左手が空を切った。
「ヤッベ、ボトル忘れた」
荒北は自分の犯した失策に軽く舌打ちする。このまま給水なしで自転車競技部の練習を続けるのは無理だ。そんなことは最近入部したばかりの初心者であってもわかる。
「おい東堂、ボトル一本貸してくれョ」
ぶっきらぼうに呼びかけられて、荒北の目の前を走っていた男は振り返って眉をひそめた。
「それはできん」
「なんだよケチくせぇナ」
「そうではない。俺は自分が必要な量のドリンクしか積んでいない。お前に貸したら俺の分が足りなくなる」
「そういうのは余分に持っとくモンじゃねえノォ?」
「余分なドリンクは余分な重量を増やすだけだからな。車体はなるべく軽い方がいい。補給はその日の天気、コース、体調などあらゆる要素から綿密に計算して準備している。ゴールした時点でボトルはちょうど空になるのが理想だ」
ハァ?何言ってんだコイツ。ボトルの蓋あけて縁までギリギリにスポドリ入れるんじゃダメなのかョ。計算ってなんだ。アレか?一袋の粉を何リットルの水に溶かすかって?ケチって薄めに作るとありえないほど不味いモンネェ。てか、ボトルを貸せない言い訳が長過ぎるダロ。朝礼の校長の話か。
「メンドクセェ」
色々考えた末に荒北が口にしたのはこの一言だった。
「む?そう思うなら自転車競技には向いていないな。スポーツをやりたいなら他にいくらでもあるだろう。さっさと帰って退部届けを提出したらどうだ?とはいえ我が部に在籍中に事故にあわれても迷惑だからな、まずはこれで飲み物を買って熱中症を予防しろ」
東堂は荒北に小さなコインケースを投げてよこすと、それきり振り返らず行ってしまった。荒北はすぐに東堂を追いかけようとして、やめた。とにかく喉が乾いていたのだ。幸いすぐに自動販売機を発見し、部活中に行き倒れるなどという不名誉な事態は回避できた。
 
翌日の部室で荒北は東堂をみつけると、腕を掴み手の平にコインケースを乱暴に叩きつけた。
「昨日はアンガトネェ!使った分は入れといたから貸し借りはナシだからナ!」
荒北の剣幕に東堂は呆れた顔でこたえた。
「なんだお前、まだいたのか」
「ったり前だっつーの!俺はナァ、テメェと話すのはメンドクセェけど自転車のことはメンドクセェとは思わねんだョ!」
「ヒュウ!かっこいいこと言うね」
傍らで二人のやり取りをみていた新開が満面の笑顔で割って入った。
「ニヤケヤロウは黙ってろ!」
荒北に凄まれても新開は動じない。
「こう見えて尽八は面倒見がいいからさ。しばらく一緒に走ってみたらどうだい?なあ寿一」
声をかけられた福富も頷いた。
「上手い奴の後ろについてコース取り、適正なギヤの選択、ペダリングなどを真似る。ロードの基本だ。東堂は良い手本になるだろう」
この提案に荒北も東堂も噛みついた。
「冗談じゃネェ!長い話につきあってられっカ!それにコイツは昨日俺を置いてったゾ」
「冗談じゃないのはこっちだ。俺は個人でエントリーしている大会直前で、初心者の相手をしている時間はない」
憤る二人を新開がいなす。
「まあまあ、お二人さんとも聞けよ。尽八、靖友君は背中から技術を盗むタイプだからさ、いつも通り走るだけでいい。靖友君、君はアクシデントさえなければ置いていかれるなんてことはないよなあ?まさか、ね」
「アア、昨日はチョットばかりトラブルがあっただけだからナ」
このやり取りを聞いて東堂は口の端をあげた。
「ほう、登りで俺について来られるというのか?」
「そんくらいできねぇとテッペンはとれないんダロ?だったらやってやる」
 
荒北は東堂の後ろを走りながら考えた。福富や新開に比べて小さく華奢な東堂がなぜこんなに速いのか。自転車競技というものは、身体がでかけりゃ有利というものでもないようだ。何か秘密があるはずだ。速くなる秘密。
それにしても。
「ナァンカ、東堂の背中は血沸き肉躍る感じがネェんだよナ」
レースで必死にくらいついていった福冨の背中は躍動感に溢れていた。練習と本番の違いなのか。静と動のこの落差はなんだ。
「俺はスリーピングビューティーと呼ばれているからな」
「寝ボケた茶ァ?」
「違うっ!俺のアタックは静かで美しいのだ。美意識の欠落したお前にはわからないかもしれないが」
静か?荒北は改めて目の前の東堂に意識を集中する。
静かか?さっきからカチカチとシフトチェンジの音なってっけど?
「アアアーーーっ!福チャンが言ってた適正なギヤの選択ってこのコトか!ペダリング!そうダョ!ローラーばっかやってた時、ケイデンスを維持しろって福チャンよく言ってたじゃナァイ!」
「何を今さら」
「わかったゾこのカチューシャヤロウ!お前の速さの秘密は正確なペダリングだ、そうダロ?」
「だからなんだというのだ。わかるというのとできるというのはまた別の話だぞ」
「ッセ!お前にできんなら俺にだってできんだョ!」
ローラーならケイデンスを維持するのは簡単だった。ギヤの選択も必要なかった。それは斜面の変化がないからだ。けれど外を走るなら、道路の状況に合わせてギヤを変えていかなければならない。斜度が上がるとペダルが重くなる。回す足も遅くなる。そうなる前にギヤを変えてケイデンスは常に一定に保つ。なぜか。それが一番身体に負担が少ないからだ。
刻々と路面は変化するのに、東堂のペダリングには全くブレがなかった。確かに簡単そうに見えて難しい。シフトチェンジが遅れるとペダルを踏む足に無駄な力がかかる。つられて上半身も揺れる。視線が地面に寄るとハンドル操作も遅れる。無駄にオーバーしたライン取りになってしまう。
無駄!無駄!無駄!
小さな無駄の積み重ねはジリジリと荒北に疲労を蓄積させていく。たいしたことのない斜度でさえ脚が重い。
「ッゼ!こんくらい、体力には自信アンダョ」
荒北は中学時代を思い出した。野球部のエースであるために誰より練習をこなした。練習をこなすための体力が誰よりあるのが荒北の強みだ。
「ゼッテー負けたくネェ」
しかしそれは突然だった。
本当になんの音もしなかった。
スルスルと東堂が離れていった。
「ハ?」
アタックをかけられたと荒北が理解した頃には、東堂の姿はカーブの先に消えていた。
さっきの場所で音がしない方がおかしいのだ。斜度が急にきつくなった。それなのにシフトチェンジの音がしなかった。ギヤは変えていないということだ。ならばペダルは重くなったはず。それなのに東堂は腰を浮かせることもなく、同じ姿勢で同じケイデンスでペダルを回していた。ずっと同じ正確さを維持したままで、東堂は何も変えていない。東堂だけをみていたらわからない。当たり前をこなす東堂が当たり前ではないことを。どうして東堂が速いのか、わからない奴の方が多いかもしれない。
「わかる奴なら静かで美しいとか言うかもネェ」
だが感心している場合ではない。荒北が目指すのは一番。東堂ごときに置いていかれるわけにはいかない。
カーブを曲がると二人の差はますます広がっていた。はてしない道の先で東堂がダンシングをしているのが見える。
「アイツ、あんな乗り方もできんのカョ」
リズミカルに揺れるその姿もどこか教科書的で、夏休みの朝のラジオ体操のように誰でも簡単に真似できそうだ。福冨が良い手本だと評するのも納得できる。しかしながら上っ面だけ同じ動きができたとしても本質まで真似るのは難しい。即ち、その動きをするのにどれだけ労力が必要なのか、はたまたその動きをするのは呼吸と同じく自然で当たり前のことなのか。
野球では素振りが基本だった。どんな球にも自然に反応できるよう誰もが毎日飽きもせず繰り返した。そうやって何年もかけて身につけられたバッティングフォームを、崩して打ち取るのがエースである荒北の仕事だった。
「あのペダリングを崩すには豪速球か変化球か」
今日は先制点を許しちまったけどヨォ、まだ勝負は終わってネェからァ。
 
 
それから季節は廻り、東堂が負けた。
 
 
東堂はよくヒルクライムの大会に個人でエントリーをしていた。その時の出来事。東堂を打ち負かすのは自分だと決めていた荒北にとってそれは受け入れ難い事実だった。荒北は応援じゃねえからと言いつつ観戦に行った。東堂の弱点を探るためだからァ。しかしそこでもやはり東堂は完璧だった。どこにも負ける要素は見当たらなかった。
だが負けた。
相手がおかしかったのだ。それまでに見たこともない変な乗り方だった。あれはルール違反じゃねぇのかと見知らぬ隣の観客にくってかかった。
「あんなふざけた野郎をレースに出していいのかョ!自転車競技自体がバカにされんダロ」
荒北はおさまりきらない怒りをレースを終えたばかりの東堂へぶつけた。
「お前が言うな。それに彼は少しもふざけてなどいなかった。真摯に自転車と向き合っていると感じたぞ」
「ンだよ悔しくねぇのかョ。俺は知ってンだ。テメェは決められた練習量はいつもみんなより早く終わっちまうから、さらに上乗せして練習してた。朝だってどこのジジイだってくらい早起きして走ってたし、休み時間はチマチマ体幹鍛えてんだって?そんだけ頑張ってたのにヨォ、ナンデ」
「悔しくないわけがあるか!!」
常に冷静沈着で気取ってばかりの東堂が、初めて見せた剥き出しの感情に荒北は気圧された。
「頑張るだけで勝てるなら負ける奴など一人もいない。俺はどうしたら勝てるかを考えて研究して実践した。万全の準備をして勝つためにここにきた。それがなんだ、このざまは!」
「アー東堂がどうこうってより、あっちがチョット不思議チャンだったよナァ」
「いいやこれは俺の問題だ。俺は昨年の戦況を参考に今年の優勝予想タイムを算出した。それを想定した練習をしてきたからな、彼の通過タイムが俺の設定タイムを上回った時、自分の脚が最後までもつか一瞬迷ってその分反応が遅れてしまったのだ。俺は今こうして敗因を分析出来るほどの余力がある。つまり全力を出し切れていなかったということだ」
「そうだネェ。そんだけしゃべる元気があんならもう少し頑張れたかもネェ」
荒北は東堂の言っていることが、よくわからないがなんとなくわかった。悔しいのは勝った相手に対してではなく、ベストを尽くせなかった自分に対して。俺はもっとできる。その気持ちがどれだけ強いモチベーションとなるか荒北は知っている。
「そんでゴールした時点で気力も体力もちょうど空になってんのが理想ダロ?」
東堂が目をみはった。
「荒北もようやくわかってきたか」
「わかるとできるは別だけどネェ。それにそしたら東堂のウザイ話聞かなくてすむからァ」
「ウザくはないな!」
わっはっはっと高笑いする東堂はすっかりいつもの調子だ。荒北は思った。コイツの気力が果てる日と、俺の体力が尽きる日と、そんな日がいつかくるまで走ってやろうジャナァイ。
頭も身体も、空になるまで。

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