【A01】空席、空虚、空の果て。

  • 縦書き
  • aA
  • aA

その席はいつも空席だった。
 
真波山岳が小学生まで病弱だったことは、そのころの同級生なら誰もが知っている。真波は頻繁に学校を休んだし、体育は当然のように見学だった。そのたびに真波の居場所は空席になる。そして不思議なことに、その方がその存在を意識させた。
 
どういうことか。
 
普段、真波が登校している時、その存在感は恐ろしく薄かった。存在感、というと少し語弊があるかもしれないが、なにぶん巧い言い回しが見つからないのでその辺は勘弁してもらいたい。とにかく、真波が自身の席を正しく埋めている時、彼はまるで景色の一部であるかのように同化し、意識の端で埋没していた。
たかだか数十人、しかも、それぞれがそれぞれに自己主張を繰り返す教室の中で、ひっそりと控え目に、その身の上の特殊な事情からは考えられないほど目立たず、なにをしていても『薄かった』。透明、と言い換えてもいいのかもしれない。それはさながら、輪郭だけははっきりとしたガラスの彫像のようだった。
 
どうしてそんな風に見えるのか。
 
真波の目が、空っぽでなにも写していなかったから、と今なら言える。あのころの真波はなにも見てはいなかった。ただただ目の前を流れていく風景をぼんやりと眺めるだけで、自発的な意思というものが全く感じられなかった。空に浮かんだ雲を見るのと同じ目で、周囲の人間を見ていた。子供心に、否、子供であるからこそ、それは酷く異様に思えたのだろう。ほとんどのクラスメイトが―――具体的に言えば、幼馴染みでありクラス委員長でもある宮原さん以外のほぼ全員が―――真波とあまり深く関わろうとはしなかった。
その結果として真波の存在感は薄く、空席になってやっと意識の端に上ってくる、という有り様だった。
なんとも薄情なことだと思う。自身ではどうにもならない身体的な不調を理由とした自己形成の在り方を、残酷に斬り捨てたことに他ならない。けれどまだ小学生だった自分達には、そうするより他になかったのだ。
だって、子供心には恐ろしさを覚えるほど、真波山岳という存在は生と死の境目が曖昧だったから。
 
真波と同じクラスになってからいくつかの季節が過ぎたころ、親の仕事の都合で転校することになった。クラスメイトはみな惜しんでくれて、それぞれ再会を誓いあった。真波はやはり体調を崩していて、転校前最後の日も欠席だった。
 
 
そして時は流れ、高校二年の夏。
「ロードレース?」
夏休みのど真ん中、なぜか騒がしい町内に疑問を呈すると、そんな答えが返ってきた。どうやら、自転車競技のインターハイのコース、それもゴールがすぐそこの山頂に設定されているらしい。なるほど。自転車競技そのものに馴染みはないが、高校生で部活動に所属していればその重要性は多少なりとも知っている。
せっかくだから観に行こうか。そんな父の誘いに乗って訪れた山頂付近、ゴールまで残り二キロ弱の地点で。
目を、耳を、疑った。
先頭を走っているのは、箱根学園ゼッケン13番、真波山岳。真っ白な自転車に乗って、徒歩ですらうんざりするような急な坂道を、猛然と駆けあがってくる。いくら存在感が薄かったといえど、その特徴的な名前を忘れるはずがない。顔にも面影がある。けれど目だけが決定的に違った。爛々と輝くそれは、あのころの空虚さなど欠片も残してはいなかった。生と死の境目ギリギリに立っていたかのような少年は、爆発させるかのごとく命を燃やして生きていた。あまりにも鮮やかな色をしたそれは、あっという間に目の前までやってきて、ほんの一瞬で飛び去っていった。その時自分が一体なにを叫んだのか、全く覚えていない。『行け』だか『勝て』だか、そんなことを口走ったように思う。
気がついたら、その場にへたり込んでいた。同行していた父が心配して手を引いてくれたが、とても立てなかった。だって、なんだか、腰が抜けてしまって。
目の前で起こったことが信じられない。あまりにも現実味を欠いている。それでもただ一つだけ確実なのは、すれ違いざまに現れた白い翼が、記憶の中の病弱な少年を遥か天空の果てに吹き飛ばしたということだ。そうして、空っぽだった少年は、ぎっしりと中身を詰め込んだ身体で山頂まで駆けあがっていった。
ぞろぞろとゴールに向けて移動を開始した観客たちが、不思議そうにこちらを見ては去っていく。いい加減父が焦り始めたので力の入らない足を叱咤して立ちあがった。まだ、彼らの戦いは続いている。その瞬間を見ることは叶わないけれど、この先のゴールまで、力の限り。
願わくばその先に栄光がありますように。
 
 
―――と、まぁこれが私がロードレースファンに転がり落ちた顛末です。え? 冗談止めて下さいよ、あんなぽやぽやした同級生にすっ転んだりしません。今の大学ロードで熱いといえば、顔という意味では東堂様と新開さんがぶっちぎり、実力と人格でいえば福富さんと金城さん、……あー、東堂様も山に於いてはまさに無敵と言えますね。本人は不本意そうですが。今度真波が大学に上がれば少しは違うかもしれないですけど。小野田君もいますし。ああ、すみません。小野田君は総北のクライマーで、山王ってあだ名が付いてます。はは、本人見たら驚きますよ。すごく腰が低くておまけに小柄で、どこにあんなパワーがあるんだろうって首を傾げること必至です。彼は真波のライバルでもあります。ちなみに、私がすっ転がった時に真波と競ってたのも彼ですよ。すごく素直で自然と応援したくなる選手ですね。は? 真波は応援しないのかって? そりゃもちろん応援はしてますけど、真波の場合はただただ『行ってこい』って思うだけというか。私が応援するまでもなく山頂の空まっしぐらですし。まぁ、それは置いといてですね。最近は元総北マネージャーの幹ちゃんとも仲良くなったのでますます観戦が楽しいです。というわけで今度一緒に行きましょう。大丈夫、後悔はさせませんから!

×

【A01 空席、空虚、空の果て。】の作者は誰でしょう?

投票結果を見る

Loading ... Loading ...