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自転車を辞めようと思ったことは、何度かあった。【新開隼人】の呪いから逃げるためには、自転車ではないスポーツを始めた方が理に適っている。それでも自転車を辞めなかったのは、自転車が好きだったからだ。
自転車を続けている限り、自分の歩く道の前には兄の影が付きまとった。レースで優勝しても「あの新開隼人の弟だから」と言われているようで、居心地が悪かった。練習をサボれば、新開隼人の弟なのにと残念がられ、積極的に練習に参加して結果を出せば、やっぱり新開隼人の弟だと言われる。箱根学園に入学してから、兄の影は足だけでなく全身を縛る呪いのようになっていた。
部室の扉を開けると、ジャージに着替えている銅橋が目に入った。誰にも会いたくない気分だったが、口うるさい先輩と比べたらずいぶんましだと部室に足を踏み入れた。
「ちわす」
「おう」
短い挨拶を交わして、部室に沈黙が走る。居心地が悪い沈黙、それでも何かを詮索されるよりはずいぶんと楽だった。
シャツを脱ぎ筋肉質な身体が目に入る。ガタイの良さは部内一といえる銅橋は、身長も高いため威圧感がある。乗っている自転車さえ小さく見えるほど大きな体だった。
「何見てんだよ」
「あ、サーセン、気に障りました?」
「そりゃジロジロ見られたら嫌だろ」
「それもそうっすね」
鋭い瞳で睨みつけられ、視線を反らした。
スプリンターだった兄の後輩であるはずの泉田や銅橋は、あまり新開悠人には関わろうとはしなかった。悠人自身がクライマーであるため、練習メニューが異なる。関りが薄い人という認識だった。本来なら、スプリンターこそ兄と比較してくると思っていたので、少し拍子抜けしていた。
「新開」
「え、…はい」
まさか銅橋から話しかけてくるとは思わず、顔を上げる。
「インターハイ、出れそうか?」
「どうですかね。でも、真波さんに勝てば出れるんでしょ?」
「ハッ、あいつに勝つつもりか」
「負けるの好きじゃないんで」
「そりゃそうだ」
他の先輩なら生意気だとか無理だとか口をそろえて言うのに、
「やってみろよ」
と、銅橋は短く答えた。
「銅橋さんは」
「ああ?」
「隼人くんのこと、聞かないんすか?」
いつもなら、兄の話を振られると気分が悪くなっていたのに、今は自分から問いかけている。目の前のスプリンターが兄のことを聞かないことが不思議でならなかった。
「あ?聞いてどうなる」
「えーと」
「なんか話あんなら直接新開さんと話す」
「…そう、すよね」
「お前と新開さんを比べても仕方ねえだろ」
銅橋の言葉に頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。
比べられることに慣れてしまっていた。自転車を続ける限り影はずっと付きまとうと、思い込んでいた。
「筋肉ってのは、努力の証明みたいなモンだ」
銅橋がジッパーを上げる。悠人は黙って銅橋を見上げていた。
「新開さんがどんなにすごくても、お前についてる筋肉を増やすことは出来ねえ」
出来るのは努力と練習だけだ、とロッカーが閉まる音が部室に響いた。
足に絡みついた影から逃げるように努力した。それは自分自身にしかできないこと。自分の胸板に触れる。昔よりずっと、硬い。
「銅橋さん」
「ゴチャゴチャうるせえのは放っておけ」
「はい」
「オレは真面目に練習するヤツしか信用しねえ」
「オレ、練習します」
「ちゃんと真波に勝てよ!」
そういい捨てて部室から出て行った背中をずいぶんと長いこと見つめていた。
兄を超えるという言葉に囚われて、身動きを取れないようにしたのは自分自身だったのかもしれない。
――― 影は、身体の後ろを歩くものだ。
Fin.
