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真波山岳とその子は言った。
自転車と坂を愛する、どこにでもいる普通の男の子。
坂道がその子と出会ったのは偶然だった。
いつも練習で使っているコースが道路工事で通行止めになっており、仕方なく迂回した先に真波はいたのだ。
「こんにちは」
ふわりと笑うその姿に警戒心など微塵もわかず、坂道はすぐにその子と仲良くなった。決して強引に踏み込んでくるようなことはしないのに、気づくとすぐ近くにいる、そんな不思議な存在だった。
「ねぇ真波くん。また会えるかな?」
「もちろん」
「今度はいつ来る?」
「いつでもいいよ」
その言葉通り、真波はいつでもそこにいた。いつだって自転車にまたがって、坂道が来るのを待っていた。
「坂道くんは坂が好き?」
「うん、大好き。真波くんは?」
「オレも。大好きだよ」
来る日も来る日も、飽きることなく二人は坂を登り続けた。
気づけば坂道は真波以外と一緒に走らなくなっていた。
「いつも誰と走ってるんだ?」
そう聞いてきたのは、坂道を自転車の道へと誘った今泉だ。以前はよく坂道と一緒に走っていた。近頃はさっぱりだったが。
「真波くんだよ」
「真波?」
「そう。すごいんだ。羽根が生えてるみたいなんだよ。真波くんは天使なのかもしれない」
何を言っているんだと今泉が顔をしかめると、坂道はうっとりしたまま続けた。
「だって、影もないんだよ」
今泉はその日、真波に会いに行くという坂道についていった。その目で確かめようと思ったのだ。
けれど会えなかった。
坂道がいつ行ってもそこにいた真波はその日、影すら現わさなかった。
『真波くん。この間どうして会えなかったの?』
『坂道くんが一人じゃなかったから』
『ごめん。嫌だった?』
『もう連れてこないで』
『わかった。約束する』
それから数日後、学校の渡り廊下で坂道と会った今泉は背筋が冷たくなるのを感じた。
「……今日も行くのか?」
「うん。行くよ」
「オレも一緒に」
「ううん、ごめん。ボク一人で行くよ。真波くんは恥ずかしがり屋なんだ」
日の光がまぶしく二人を照らしていた。
「おい、坂道」
「なに?」
「もうそいつと会わない方がいい」
「どうして?」
「どうしてもだ。お前……影が薄くなってる」
坂道は自分の影を不思議そうに見つめた。
「気のせいじゃない?」
視界に真波の姿を捉え、坂道のケイデンスは自然と上がる。
「おーい! 真波くーん!」
その声に応えるように真波がにっこりと笑った。
「やあ、坂道くん」
「ごめんね、待った?」
ううん、と真波は首を横に振る。
「もう、来てくれないかと思ったよ」
「どうして? ボクたち友達でしょう?」
「そっか。友達、か」
「それより走ろう? ボク、真波くんと勝負がしたいよ」
「オレもだよ、坂道くん。オレはずっとキミと思い切りの勝負がしたかったんだ」
「ずっと?」
「……ううん、こっちの話」
二人は走った。坂を登って、下りて、また登って。
日がとっぷり暮れるまで、影も見えなくなるまで、二人は二人だけの勝負をめいっぱい楽しんだ。
坂道はその晩、家に帰り、そしてもう二度とその子のことを思い出すことはなかった。
真波山岳とその子は言った。
自転車と坂を愛した、どこにでもいる普通の男の子だった。