【B01】シルエット

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「荒北さん、俺、来年はアシストとして走ります」
 
けじめのように、はっきりと告げる。名を呼ばれた後にそう宣言された先輩は、わずかに目を細めた後に、うっとうしげに髪をかきむしった。
 
「わざわざ口にすんじゃねェよ」
 
あの走り見りゃ分かるっつの。なァ、黒田。そう言って、隣に腰掛けている荒北は不器用に表情を歪めた。
つい先程まで行われていたのは、箱根学園自転車競技部では毎年恒例の追い出しファンライドだ。追い出されるのはひとつ上の先輩の代で、勝ったのは後輩である自分達。その道中、勝敗を決める互いのエースをゴールに送るために競った相手こそ、今、隣に腰掛けている荒北靖友である。
レースの中で交わした言葉こそ少なかったものの、肝心なことは確かに伝わっていたらしい。それなら話も早い。すみません、と一言謝ってから、黒田は話題を本題に運んだ。
 
「聞きておきたいことがあるんです」
「あんだよ、この期に及んで」
「あの日……インハイの最終日、リタイアする前。荒北さんが最後に見た景色って、どんなものだったんですか」
 
ぴくりと訝しげに眉が動き、切れ長の目が細められた。開きかけた口から機嫌の悪そうな声が発せられる前に、諌めるように両手を出し、「分かってます」と先手を打つ。
 
「そんなこと聞いて何になるんだって言いたくなるのは分かります」
 
一瞬の沈黙。その後に、開かれた口がゆっくりと閉じられた。どうやら話を聞いてもらえるらしいと判断し、でも、と続ける。
 
「あの道を――インハイを走る選手は、誰一人として同じゴールを迎えることはないでしょう。……だからこそ、荒北さんがどうだったのか聞いてみたいと思いました」
 
一人一人、ゴールは違う。荒北のゴールは、最終日のスプリントラインよりも手前のまっさらな平坦道だった。結果だけ見れば無念なのかもしれない。けれど、リタイアする直前の荒北の走りは、沿道から観る者を慄かせるほどに鬼気迫るものであったらしい。黒田自身の目でその瞬間を見ていなくとも、荒くれた狼のような走りだったのだろうと想像がついた。
興味があった。そんな人の最後に見た景色はどんなものだったのだろうかと。
こちらを見定めるような瞳に視線を合わせて、お願いします、と頭を下げる。しばらく押し黙った荒北は、ふう、と口の端から息を吐いた。
 
「影だよ」
「影?……影って、この影ですか?」
 
全く予想していなかった答えに首を傾げ、足元から長く伸びた黒い影を指さす。荒北は首を振ることもなく、いや違う、と否定した。微動だにしないまなざしは、ここではないどこかを睨みつけている。
 
「ボヤッとした五つの影だよ。限界状態で目が霞んで、日光も眩しくて、分かるのはせいぜいジャージの色ぐれえだ。……いや、色すら分かってなかったかもしんねェ。ただ、猛スピードで横を走り抜けていく影達を見て、妙に安心した」
 
本能で味方だと分かったんだろうなァ、と荒北はくつくつと可笑しそうに笑った。鋭かった目の光はいつのまにか和らいでいる。
 
「不思議なモンだよなァ」
 
ぽつりと落とされたその言葉は、殊更ゆっくりと、澄んだ空気に滲んでゆく。空はいつの間にか赤く染まり、沈みかけた太陽が揺らめいている。そんなに遅い時間ではないはずなのに、すっかり夕方だ。もうそんな季節になっていたのか。
初冬の夕陽を受けて橙色に染まった横顔はやわらかい。
 
「ほとんど何も見えねえはずなのに、どの影が誰のモンだか分かんだよなァ。ああ今通り過ぎて行ったのは東堂で、次は真波で、みてぇな」
 
荒北の視線が空に投げられる。今、このまなざしは、ここではないどこかを夢想している。きっとあの夏に旅をしているのだ、と黒田は思う。同じ夏を夢想しても、自分には決して思い描くことのできない景色に。
沈黙が流れる。聞いておいて何も反応しないのは好ましくないと思いながらも、返す言葉が見当たらなかった。そうですか、なんてありふれた相槌も、分かりました、なんて上っ面だけの相槌も、今聞いた答えにはとうてい釣り合わないからだ。荒北も、何か言えと急かしたりはしなかった。ただ、互いの気が許すままに黙り続けていた。
沈黙を破ったのは荒北だった。冷えてきた空気に体を震わせ、そのまま立ち上がり黒田を見下ろした。
 
「寒ィな、帰んぞ」
「……ハイ」
「まぁ……なんだ。せいぜい頑張れヨ」
「え?」
「最後に見る仲間の背中がたった一つしか無ェっつーのが、アシストの理想だろうが」
 
はっとする。あの日の箱学ゼッケン2番は最高の働きをしたと、誰もが口を揃えてそう評した。黒田自身も、そう思う。荒北は、体力の残り少ない自身を切り捨て、五人の仲間を先行させた。無駄のない冴えた動きだった。けれど、この野生的でありながら確固たるプライドを持ったエースアシストは、ゴール際にエースを送り届けられなかった運び屋は、きっと心の中に小さな燻りを抱えている。
悔いはない、とこの人は言う。けれど、真に悔いを残さないのは、想像よりもずっと難しいことなのだろう。
残すべきものは残せなかった。けれど、積み上げてきた三年間は間違いなく誇るべきものだ。その事実に変わりはない。
 
「あざす!」
 
気づけば起立して頭を下げていた。本日、二度目のお辞儀だった。
オゥ、と素っ気ない声を残して、荒北は黒田を待つことなく先を歩き出す。その背が作り出した人型の影は、黒田の半身を覆い隠して揺らめいた。

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