F06『八月三日、食堂にて』

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 箱学のインハイメンバーが学生寮の食堂についた頃には、時刻は午後八時を回っていた。取材や軽いミーティング、三日間走り続けた体のケアに追われ、いつもよりずっと遅い夕飯だった。
 普段の夕飯は七時半までで、それ以降になると、寮母が九時までは対応してくれる。今年は地元開催のインターハイということもあって、調理師たちが残業をし、帰ってきた選手たちに、温かい食事を提供してくれていた。サポートメンバーたちは、一足先に食事を終えている。がらんとした食堂には、五人きりしかいない。
 メインはポークステーキに、付け合わせの玉ねぎ、かぼちゃ、にんじんのソテー。きゅうりとわかめの酢の物に、トマトを添えたポテトサラダ。豆腐と大根の味噌汁に、大盛りのご飯。壊れにくいプラスチックの食器に、どれも一人前よりは多い量が盛り付けられている。
 テーブルの中央には、麦茶がヤカンごと置かれている。五人分のご飯茶碗、汁椀、主菜、副菜が乗ったトレイが手渡され、箸が回り、湯のみが渡る。
 いただきます、と箸を手に、手を合わせて、それぞれのやり方で、食事に取り掛かる。五人の間に会話はなく、しんとした食堂に、箸と食器のぶつかり合う音だけが響いている。厨房にはまだ数人のスタッフが残っているはずだが、息をひそめているように静かだった。
 戦いを終えた五人は、わしわしと米をかき込み、味噌汁をすすり、肉を喰らう。ご飯は炊きたてで、つやつやとしていた。甘しょっぱいタレのからんだ豚肉は、惜しげもなくぜいたくに分厚い。酢の物はちょうどよくなじんでいて、サラダは気持ちよく冷えていた。無言の中、料理だけが順調に胃袋に消えていく。
 沈黙を破ったのは、盛大に噎せ返った咳音だった。荒北だ。クソ、米粒鼻に回ったァ、と鼻筋を押さえて、痛みに悶えている。
 せめて手で抑えろ汚いな、と小言をくれてやりながら、東堂が箱ティッシュを引き寄せて渡す。渡す前に、自分が使う分を一枚引き抜いた。
 大きく息をついて、新開が天井を仰いだ。靖友、次はオレに回して。鼻をつまらせながらも、咀嚼はやめない。上を向いたまま、器用にトマトを口に放り込む。
 どうぞ、と泉田が自分のポケットティッシュを先輩に差し出す。もうほとんど残っていなかったそれを、新開は礼を言って受け取った。
 つかえた息を、麦茶でぐっと流し込んだのは福富だ。あまり飲むと消化に悪いと、いつもなら咎める声は、今日は響かない。
 普段よりも、ゆっくりと進む食事だった。それでも、いつも通り、荒北が一度、新開が二度おかわりに立つ。おかずの足りない分は、皿に残った肉汁を、いじましく玉ねぎで掻き取って、残ったごはんにかけている。以前、ご飯にとんかつソースをかけて、塩分が多すぎると東堂に叱られたことを覚えているらしい。
 六人掛けの席はひとつ、空いている。自宅生でも今日ばかりは一緒に食べていいと言われていたはずだが、真っ先にゴールに駆け込んだ一年坊主はいなかった。この場の誰よりも早くたどり着き、それでも勝てなかった一年生は、空きっ腹のまま、自宅へと帰っていった。
 大食らいがいても、三角食べを遵守する者がいても、なぜかチームの食事のスピードは似通ったものになってくる。全員の皿が空になったのは、ほぼ同時だった。そこで初めて、厨房がざわついた。
 ベテランの調理師が、意を決した顔で大皿を抱えてくる。準備してしまっていた、ごめんなさい、でも食べてくれたら嬉しい、と。
 皿の真ん中には、場違いに明るい、ホールケーキがあった。白い生クリームに、真っ赤なイチゴと缶詰の黄桃。六等分にカットされたケーキの真ん中には、無理やり均したような跡が残っていた。チョコレートのプレートが乗っていたのだろう。自分たちには見せられないような文言の、と副主将は考える。おそらくは、もっと明るい場所で、祝福とともに提供されるはずだったケーキ。
 いただこう、と力強く言い切ったのは、主将だった。その言葉に、ほんのわずかに場の空気が緩んだ。
 オレふたつ貰ってもいいかな、とすでに一つ目を手づかみでキープしようとしている、スプリンターが言う。
 全員の湯のみに麦茶を継ぎ足し、ケーキなんて久しぶりです、と言いながらこの場に一人きりの後輩が言う。
 せめて皿使えっつの、と持ってきた小皿とフォークを配るが、アシストむなしく、皿に置かれる間もなく一つ目のケーキは胃袋に消えていった。
 手づかみだったり、フォークだったりと、それぞれのやり方で、人知れずケーキは処理された。疲弊した体と神経に、優しく染み渡る甘さだった。
 トレイを返し、部屋に戻る前に、打ち合わせをするでもなく、五人は一列に並んだ。ごちそうさまでした、遅くまでありがとうございました、と頭を下げて、食堂を後にする。
 みっともないところを見せたと、それでも部屋に引きこもるわけにはいかなかったと、その場の全員が思っていた。ぼろぼろと涙をこぼし、鼻を垂らし、息を詰まらせ、それでも誰も箸を止めなかった。温かな食事を口に運び、あらゆる感情とともに飲みくだした。食べなければ勝てない。覆りようのない敗北の前であっても、王者の歴史に泥を塗った日であっても、食べないなんて選択肢は、彼らにはなかった。負けたからといって、死ぬわけではない。でも、負けて、食べることをやめたら、進めない。進めないレーサーは、死んだも同然だった。
 進むために食べる。次は勝つために、食べるのだ。飲みくだしたものを燃料にして、腹の底では火が燃えている。その火は、冷え冷えとした敗北から、彼らを守る。
 誰からともなく、おつかれ、と言い合って、五人はそれぞれの部屋に消えていく。真っ赤に腫らした目で、彼らは明日もペダルを踏む。

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