E09『細胞』

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 寮に辿り着き、窓にまばらな灯りが点いていることを確認した福富は、秋だ、と思う。それは夏の盛りを過ぎた印でもあった。
「18時か、急がねば夕食に間に合わんな」
 東堂が言い、「腹減った……」と新開が切なげな声を漏らす。
「風邪をひきたくはないだろう? 耐えろよ隼人」
「汗だくで食堂なんて行ったら公害だろーが」
 言い合いながらロードを片付け、靴を脱ぎ、それぞれ自室に風呂セットを取りに行き再び風呂場で顔を合わせる。
「ほら」
 全裸の東堂が籠を差し出し、それぞれ脱いだサイジャを放り込む。そのまま籠を逆さにして洗濯機のスイッチを入れれば、食事が終わる頃には洗濯完了という寸法だ。
「腹減ったよ……」
 新開の呟きはなおも繰り返される。福富は無言で頷き、東堂と荒北は体を洗う手を緩めない。皆心はひとつだった。一刻も早く風呂を終え、食堂に向かいたい。タイムリミットは午後19時だ。

「今日なんだっけ?」
「昨日は肉だったから、今日あたり魚じゃないか?」
「アーオレ、肉の気分だワ」
「腹減ったな……」

 騒々しく廊下を突っ切り、たどり着いた食堂前、扉にぶら下げられたホワイトボードには「肉じゃが」と書かれていた。それを見た、荒北はスゥ、と細い目をさらに細める。

「惜しい……」
「なにがだ荒北、ご所望の肉料理ではないか!」
「なんかこう…もっとがっつりした肉気分だったっつーか」
「……肉じゃがは好きだ」
「アー福チャンは肉じゃが好きそうだネ! 」

 食堂の扉を開くと、休日で寮外に出ている生徒が多いせいか人はまばらだった。窓際のテーブルに黒田と泉田の姿があり、こちらが気付くと同時に軽く腰をあげた。
 手で合図し、盆を持ってカウンター前に並ぶ。
「今日は遅かったのね」
 待ち構えていた食堂スタッフに声をかけられ「息抜きです、土曜日なので」と東堂が答える。

 福富世代は、先月、箱根学園自転車競技部を引退した。

 揃いの献立を盆に載せ、後輩達のテーブルに合流したのが18時40分。
「いただきます」
 かつて主将であった福富が声をかけると、皆が一斉に箸をとる。
 おかずから手をつける荒北、背筋を伸ばし三角食べを徹底する東堂、新開は米に一目散だ。好物を後回しにする福富は、暫し悩み、副菜の揚げ出し豆腐に手を伸ばした。

「毎日同じもん食ってンのにどうしてこんなに違うんスかね」

 黒田が言い、首を傾げた福富に「脚ッス」と付け足した。どうやら米のおかわりに席を立った新開の脚を見ての感想らしい。
 もともとクライマーだった黒田はどちらかと言えば東堂や荒北の体格に近く、生粋のスプリンターである新開とは脚の形からして異なる。

「まあ、体質もあるだろうな」と東堂が言う。入学時から5キロ近く体重を増やした新開と異なり、東堂の体格は当時とほぼ変わらない。無論、頭のカチューシャもだ。
「筋肉つけたいなら相談にのるけど、ユキの場合はあまり体重を増やさないほうがいいんじゃないか」
 泉田が言い、黒田も頷く。
「まぁ、そうなんだけど」

 スプリンターにとって、食事は筋肉を纏うための手段のひとつだ。高たんぱく、高カロリーな食事を摂取し、高負荷のトレーニングで磨き上げる。
 生真面目な泉田は食事についても人一倍気を使っていて、その辺りは食べたいものを食べたいだけ食べ、片っ端から燃料へと変えていく新開とは正反対だった。
 ただ、そのストイックさは時に危うい。かつてトレーニングの一貫として厳しいウェイトコントロールを行っていた際には、スポーツドクターに警告を受けたこともあった。

「トレーニングは健康第一でネ」
 当時のことを思い出したのか、荒北がその背を叩くと、泉田は表情を引き締めて頷き、すでに空になっていた皿に目を落とした。

「確かに以前のボクは…食事なんて筋肉をつけるための手段だと思っていました。だから、献立を選べない寮生活のままならなさに苛立ったこともあります。でも、今はこうして先輩方と同じ食卓を囲むことのできる環境が、かけがえのないものだと感じていますよ」

 その言葉を聞き、泉田は成長した、と福富は思う。
 自分たちは皆、箱根学園自転車競技部という、長い歴史の一部にすぎない。しかし福富はインハイを敗戦で終えた今も、自分の世代が最高のチームであったと自負しているし、同時に泉田がそれを受け継ぎ、さらなる高みへと導いてくれることを期待してもいるのだ。
 食卓にしんみりと温かい空気が舞い降りた瞬間、新開が湯気を纏ったどんぶり飯を片手に帰還した。

「盛ったな」
「あと3杯分はあるって。早いもん勝ちだぜ」
 そう言ってようやくおかずに手をつける。
「走ってる間もパワーバー食ってンのによくそんなに入るネ」
「パワーバーはパワーバーだろ。水分補給みたいなもんだよ」
「水分ではないな!」
「はは、突っ込まれちまった」
 言いながら新開は副菜の揚げ出し豆腐を泉田へと差し出した。
「おめさん、豆腐好きだろ?」
「えっ、そんな、いただけませんよ」
「いいんだ、おれには米があるから」
 感極まった表情で見つめる泉田にウインクを送る新開を、その他のメンバーは、まだ食うつもりなのか、という呆れ顔で見守っていた。

 いつの間にか、話題は好きな食堂メニューへと移る。唐揚げ、生姜焼き、しらすと枝豆のごはんにイカリング。
「イカリングは断然ケチャップ和えがうまかった。なのに去年の10月に出たきりなんだよナァ」
「なんなんスかその無駄に細かい記憶力!」
「ウッセ! 無駄じゃねーダロ、卒業前におばちゃんにリクエストすんだからヨォ」
 言い合う仲間たちを見守りながら福富は、泉田の好物が豆腐だとは知らなかったなと考えている。毎晩寝る前にプロテインを飲んでいるのは知っていたが、そうか、豆腐か、と自分が真っ先に食べ終えてしまった揚げ出し豆腐の皿を眺めた。
 しかし幼馴染である新開の好物ならば自分にもわかる。
「お前はチョコバナナだったな」
 福富が言うと、新開は「さすがだな、寿一」と笑った。「だけど米も好きだぜ」そう言って再び席を立つ。既に時刻は18時50分。

「ええ~!」

 遠くで悲痛な声があがり、振り向くとがっくりと肩を落として戻ってくる新開がいた。どうやら既に米はなくなったらしい。食堂には他に柔道部や野球部の者もいたので、のこり3杯は彼らの胃袋におさまったのだろう。

「案ずるな隼人! 俺の部屋に温泉まんじゅうがあるぞ、今朝実家に顔を出したのでな!」
「いふぁふぁくふぇ」
 残りのおかずで口をいっぱいにしたまま新開が頷く。
「まだ食うのかヨ」
「甘いものは脳によいのだぞ?」
 そんなことを言っている間に、食堂が閉まる時間が迫る。

「さあ急いで食え! 食堂の方々に迷惑をかけるなよ!」
 一足先に席を立つ東堂に、後輩が続く。
「泉田、黒田」
 思わず声をかけた。
 それは自分のものではない。だがどうも今はそれを言わずにはおれなかった。
「お前達もまんじゅうをもらったらどうだ」
 耳聡い東堂は破顔し腕を広げる。
「そうだ、お前達も来い! 東堂庵謹製のまんじゅうをやろう」

 食堂の扉が閉まる。玄関の蛍光灯が瞬く。リノリウムの廊下を横切り、脚だけで見分けのつく男たちが6人、ぞろぞろと階段を上っていく。

 春が来る頃、自分達はここにはいない。
 それまでの残り少ない日々、俺たちは同じ釜の飯を食って、生活をする。

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