D08『優しい呪い』

  • 縦書き
  • aA
  • aA

「久しぶり…だな」
 口を衝いて出た言葉は、同じ屋根の下で暮らしているオレたちの関係には全くそぐわなかった。

 寮の食堂前で、隼人と鉢合わせた。オレのよそよそしい挨拶を受け、バツが悪そうに目を泳がせている。
「あー……尽八も、メシか?」
 オレは、ああ、と肯いた。夕飯の提供開始時間から十五分ほど。今この場にいるとしたら目的はそれしかない。
 隼人はそっか、と笑って、辺りを見回しはじめた。明らかにこの場から立ち去る理由を探している。この男はこういうところが実に不器用だ。それが魅力のひとつでもあるのだが。
 オレはそんなヤツの腕を引っ掴んで三人ほどしかいない配膳列に並んだ。
「えっと……?」
「ま、立ち話もなんだ。目的も同じようだしな」
 戸惑う姿を見ながら、ニヤリと口角を上げて見せた。意地の悪いやり方だという自覚はある。しかし、こうでもしないとオレは再び彼に対して『久しぶり』などと口にすることになってしまうのだ。

 自転車競技部では、誰かが来なくなっただの辞めただのは特別なことではない。伝統ある強豪で、王者と称されるチームに憧れて入部したものの、生半可ではない練習にふるい落とされ、そこをなんとか踏ん張っても、インターハイでチームとして走る六人として選ばれるかはまた別の問題だ。その現実に打ちのめされるものも少なくない。
 そんな中、新開隼人という男は二年生ながら、メンバーに選ばれたのだ。
 まだ噂でしかない段階でその話を聞いた時には、当然だろうと思った。箱根学園のスプリンターの中では明らかに抜きん出た実力を持っている。それを誰もが知っていたのだから。
 しかし、彼はこうしてオレの隣で、おばちゃんにご飯の大盛りをリクエストしている。
「いつもこの時間なのか?」
「まぁ……他にやることもないしな」
 頬を掻きながら隼人は答えた。
「尽八こそ、今日は早いね」
「もともと《インハイメンバー以外》は休息日だからな」
 オレの言葉に、隼人の肩が跳ねた。
 この時期、コースは専有され、メンバー外の三年を中心に補給部隊もその練習に当たるのが常だ。今回は遠方の開催ということもあり、インターハイ後、直近のクライムレースに出場する予定になっていたオレはそこから外されている。
 自主練といっても、まともに使える場所はトレーニングルームくらいなものだ。巻ちゃんとの個人練習が週末に控えていたオレは、今日のところは徹底的に身体を休めることに決めたのである。とは言え、ただ怠惰に過ごすのも性に合わないので、部屋を片付けたり、借りた本を読んだりして過ごしたのだが、ペダルを回している時とは違い時間が余って仕方がない。
「……そっか」
 隼人は絞り出すようにそう口にして、メインディッシュの生姜焼きに手を伸ばす。

 彼はこの夏、走らないことを選んだ。
 その理由が精神的なものであることは理解している。自転車競技においてメンタルはもちろん重要だ。しかし、目に見えない心の傷を他人が推し量るには限界がある。前代未聞な彼の選択は、部内に波紋を広げるには十分だった。
 その後、隼人は部の練習には顔を出さなくなった。荒北の話では、(部室に入れなくて困ったという愚痴まで聞かされる羽目になったが)誰もいない時にローラーを回してはいるらしい。フクも「来年は走る」と言い切っているし、オレ自身もそれを願っている。そのためにも、早く部に戻ってほしいというのが正直なところだ。いくらウチが実力主義とはいえ、練習に参加していないとなれば選出にあたっての懸念材料になりかねない。選ばれなかった部員たちが悔しいながらもその実力を認め、心から応援できる――それもインハイメンバーに備わっているべき力だと思う。

 全てのおかずをトレイに載せ、食堂の奥に席を取った。窓から一番離れた壁際で、入口からもちょうど死角になる。まっすぐ向かっていくところを見るに、最近の彼はここが定位置なのだろう。
 席に着き改めて今日の献立を確認する。生姜焼きにはキャベツとトマトが添えられている。ドレッシングは寮母さんの自家製でキャロットベースの甘めのものだ。小鉢には茄子と油揚げの煮浸し、ごはんになめこの味噌汁、デザートのバナナムースは隼人の好物だ。
「ねぇ、尽八」
 隼人の顔を見てギョッとした。今にも哀しみが降り出しそうだ。彼が食事を前にしてこんなにも表情を曇らせているのを初めて見た。
「おれ、やっぱりダメかも……」
 隼人はそれっきり俯いてしまった。一番聞きたくなかった言葉に戸惑いながら、目の前の茶赤の髪をくしゃりと撫でた。されるがままに弄ばれる毛先は柔らかい。しばらくすると、オレの手から逃れるように隼人が顔を上げた。
「やっぱり、呪われてるのかな……?」
「……はぁ?」
 何の話をしているのかだろうか。なお神妙な顔持ちを崩さない隼人に対して、オレは完全に置いてけぼりを食らっている。
「腹がさ……減っちまうんだ」
 ポカンと空いたままだった口からは、残念ながら何の音も発せられることはなかった。
 腹が減る、なんて、人として当たり前のことだ。何せ空腹を超え飢餓の域に達してしまえば死が待っている。そうなる前に身体に危機が訪れた旨を知らせねばならないのだから。
「あの日以来、満足にペダルも回せないのにさ」
 ショックを受けると、食事が喉を通らないというのが正しい反応なのかもしれない。
「しかも、ちゃんとおいしいんだ」
 それは味覚が鈍って旨味を感じないのも理由の一つになるのだろう。
「こんなの、おかしいって思うのに、それでも毎日腹が減って、気がつくとここに来ちまうんだ……」
そんな隼人の目の前には今、漫画のような山盛りご飯と、おばちゃんが二枚ほど豚肉をオマケをしてくれた生姜焼き。他人よりは多いが、彼にとってはこれが普通。そう、変わらないのだ。
「……ちょっと、尽八」
「なんだ」
「笑わないでよ」
「ふっ……すまんな」
「真面目な悩みなんだけど」
 もちろんこちらとて真剣だ。腹が減り、おいしく食事をするという普通のことを普通にしてしまう自分を、この男は責めずにはいられないのだろう。そんな隼人の心を、オレは誇りに思う。
「そうだな……隼人、たしかにおまえは呪われている」
 同時に、きっと大丈夫だと、ゴールへ続く道の上に戻ってくると確信した。
「この世で一番優しい呪いにな!」
 呆けた顔にビッと人差し指を向ける。
「なにそれ、どういう……」
 身を乗り出した隼人の言葉を遮るように、彼の腹の虫が悲痛な声を上げた。顔を見合わせて、思わずふき出す。
「とりあえず……食べるか」
「……うん」
 二人揃って手を合わせて箸を取る。味噌汁を飲みながら隼人を見た。迷わず肉を口に運び、咀嚼もそこそこに白米をかきこんでいる。

 なぁ、隼人。
 おまえがかかっている呪い、その呪文を知っているか?

 食え。生きろ。そして――走れ、誰よりも速く!

 今は辛くとも、身体は進もうとしているから。再び前を見据える時を待っているから。
 だって、それがおまえの『本能』だろう?

 オレのバナナムースを隼人のトレイにのせてやると、珍しい、と目を丸くした。
「いつもは糖分がどうのって言うくせに」
「山神のご利益入りだ、ありがたく食え」
「……じゃ、遠慮なく」

 いただきます。
 そう笑う顔にはすっかり晴れ間が戻っていた。

D08『優しい呪い』の作者は誰でしょう?

  • 星雨 (22%, 2 Votes)
  • すみっこ (22%, 2 Votes)
  • kmi (22%, 2 Votes)
  • うい (11%, 1 Votes)
  • はしこ (11%, 1 Votes)
  • まや (11%, 1 Votes)
  • くらむ (0%, 0 Votes)
  • 木本梓 (0%, 0 Votes)
  • 桐原十六夜 (0%, 0 Votes)

票数: 9

Loading ... Loading ...

←D07『期末試験まであと10日』へ / D09『おいしい』へ→

×