D06『すべてを糧に』

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食べる、食べる。新開隼人はとにかくよく食べる。大学生になって一層食べる。悠人の記憶では昔から走るか食べるかばかりしている。
「隼人くん、なんでそんなに食べれるの」
「はひんへーほ」
「ちょっと、汚い」
ご飯粒が飛んだ。両親は笑っている。愛息子たちのたまの帰省を慈しんでいる。
「走んねーと」
隼人は急いで食べ終えた。ダイニングを出ようとして、一度悠人を振り返った。
「一緒に走るか?」
「宿題あるから」
突き放せば、そうか、と頷かれた。二度は振り返られなかった。
悠人の抱える屈折を隼人は知らない。隼人の経た葛藤を悠人は知らない。
それでも兄弟は続いていく。自転車の道は続いていく。
食事と練習を血肉に。経験と確執を踏み台に。
すべてを糧に、スプリンターは真っ直ぐに飛んでいく。
 
 
 
食べる、食べる。泉田はとにかくよく食べる。ありとあらゆる知識を食べる。自転車がなければ本の虫だった。
「泉田さん、そんなことまで勉強してるんですか」
「役立ちそうだと思えばね。面白いよ」
泉田の手にある本は分厚い。基礎心理学。寮の談話室で気楽に読むものではない。
「主将って大変です?」
「楽じゃあない。でもやりがいはある。僕にしかできないこともある」
泉田は目を細めた。飾らない自負があった。少しだけ兄に重なった。
知識、重責、努力。周囲の期待、あるいは疑心。食われまいと背筋を伸ばして。
すべてを糧に、主将は主将たらんとしている。
 
 
 
食べる、食べる。銅橋はとにかくよく食べる。他校の選手を次から次へ。潰された者は数えきれない。
「銅橋さんって、潰すつもりで走ってるんですか」
「弱ぇのが悪いだろ」
レースの後は存外静かだ。最中はぎらぎらしている。兄もこうだったろうかと考える。
「インハイはもっと楽しめますかね」
「さあな」
獰猛な牙が見えている。チームメイトでなければ恐ろしかったかもしれない。
鬱憤を蓄えて。エネルギーとして発散して食らわせて。蹴散らした先でまた蓄えて。
すべてを糧に、道の怪物は突き進んでいく。
 
 
 
食べる、食べる。ウサ吉はとにかくよく食べる。食堂で出た野菜くずも美味しそうに。食い意地が兄に似ている。
「ウサ吉お前、世話してもらってないの」
「交代でやってるよ。ユートも入る?」
独り言のつもりだった。ひとの声がして驚いた。隣で真波がにこにこしていた。食えないひとである。
真波はとにかくよく笑う。本気か嘘か分からない。底が知れない。
「俺はいいです、動物好きでもないんで」
「知ってる?ウサ吉、キャベツよりニンジンの方が好きなんだよ」
ひとの話を右から左へ。柳のようでいて、彼の中には降り積もっている。
東堂さんが言ってたんだけど、とたまに言う。自分に言い聞かせるようにも言う。
技術。心構え。大事なこと。先輩から後輩へ。繰り返される限り、生き続けるもの。
すべてを糧に、クライマーは羽ばたく力を培っていく。
 
 
 
吐く、吐く。黒田はとにかくよく吐く。嘘でも毒でも自由自在に。ひとつの才能だ。
「黒田さんって、なんでそんなにどんどん嘘吐けるんですか」
「一日一嘘吐かねーとじんましん出るからな」
「えっそうなの、大変だったんだねユキちゃん」
「嘘だよ。お前騙されやすすぎだろ。なんだよじんましんって。なぁ、そんなヘソ曲げんなよ、悪かったって」
葦木場は部室の隅で体育座りしている。黒田は背を向けられて焦っている。
馬鹿と鋏は使いよう。嘘やら毒もまた然り。食いぎみな種明かしと謝罪も信頼の礎。
すべてを糧に、エースアシストはエースとの関係を構築する。
 
 
 
聞く、聞く。葦木場はとにかくよく聞く。彼にしか聞こえない音楽を。満ちて仕方ないという情熱を。
「またクラシック鳴ってますか!?」
「鳴ってるよ!ベタに第九だ!」
引かれて駆け抜ける。風がごうごう轟く。息が切れそうになる。心臓が痛い。
笑いだしたい。叫びだしたい。代わりにペダルを回す。全身で共鳴する。
悠人には風の音しか聞こえない。ラチェット音しか聞こえない。クラシックなんてどこにもない。それでも食らいつく。
「もっと上げてもいいですよ!」
「言うじゃないか!」
葦木場は喜んで速度を上げた。悠人は血を燃やして踏み込んだ。
学びたい。ついていきたい。慕うなんて感覚は久しぶりだった。
彼の再生の物語を知っている。彼の言葉の重みを知っている。
すべてを糧に、エースはエースとして走っている。
 
 
 
問う、問う。新開悠人はとにかくよく問う。先輩一同は肩を竦めている。
「ユートって結構知りたがりだよね」
「勝ちたいんですよね。先輩たちだってそうでしょう?」
答えはイエスか。返事は要らない。食わず嫌いはここにはいない。
すべてを糧に、夏を目指す。
 
 
 
「あー腹減った」
「今日のご飯なんだっけ」
「チキンカレー」
「それは…戦争が…!」
「寮の廊下を走ったらペナルティだからね。筋トレ増やしたいなら別だけれど」
「わーアンディフランクの友達ができますね」
「おいお前適当いうな」
「大丈夫だよバッシーの筋肉ならすぐ友達になれるよ」
「名前つけようよバシくん」
「大丈夫って何スか、触るな真波!おい!」
「お先でーす」
「悠人あいつちゃっかり抜け駆けしたぞ!捕まえろ拓斗!」
「おれもうだめお腹が空いてちからがでない」
「パワーバー食べます?」
「いや、いい、カレーが俺を待ってるから」
「それは頼もしいですねー」
「あいつらのボケ倒し胃もたれするわ」
「同感っす」
「早く行かないと本当になくなるよ?」
「こわいこわいこわい」
「急げ!」
「あはは頑張ってくださーい」
「笑うな自宅生!」
「気を付けて帰るんだよ」
「はーい、お疲れ様でーす」
「お疲れ!」
 
 
 
食べる、食べる。
すべてを『勝て』に、彼らは走る。

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