D04『甘い優しい』

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初夏の陽射しのなか、私は久しぶりに、息子達も通っていた箱根の小学校へとやってきた。
当時と変わらぬところもあれば、大改修したぴかぴかの講堂にも驚かされる。
スリッパに履き替え、手拭いで汗を拭きながら階段で校舎の二階に上がる。
既に廊下には保護者たちが並んでおり、それぞれ順番に教室の後ろへと入っていく。私はきれいに汗を拭い、髪やシャツの襟を整えてループタイを締め直した。
教室では、小学一年生達が、席に座ったままそわそわと首を動かし、自分の親を探している姿がなんとも可愛らしい。
坊っちゃんも私を見つけ、目が合うとお互いニコリと笑った。隣の席の女の子が、東堂くんのおじいちゃん?と訊ねている。いいや、うちの宿で働いてるトメさんだ、と返していた。
教壇に立った先生が、パンパン、と手のひらを大きく叩き、静かになった子ども達が姿勢を正した。
後ろに立つ保護者たちも、思わず背筋を伸ばして見守る。
さあ、教科書を開いて。順番に読んでいきましょう。先生は生徒ひとりひとりを立たせ、数行づつ朗読させていく。
尽八坊っちゃんの朗読は、良く通る声で、それはそれは素晴らしかった。

***

先生さようなら、と、支度を済ませた子ども達が親と連れ立って次々に校舎をあとにする。
私も先生へご挨拶をし、坊っちゃんと一緒に階段を降りて靴に履き替え外に出た。
学校の駐車場で、車の助手席に乗り込んだ男の子がこちらに手を振った。坊っちゃんも手を振り返す。運転席の父親が会釈をしてエンジンをかけ、車は校舎の裏門の方へ走り去っていった。
「トメさん、宿のお仕事もあるのに大変だっただろ?でも授業参観にきてくれて嬉しい」
ランドセルにぶら下がった交通安全の御守りを揺らしながら、尽八坊っちゃんが笑顔で私を見上げた。
「私も坊っちゃんの立派な姿が見られて嬉しかったですよ。坊っちゃんの朗読がいちばん良かった」
私がそう返すと、いつも先生に褒められるんだ!と坊っちゃんは自信満々に胸を張った。
東堂庵に長男として生まれた尽八坊っちゃんは、賢くて運動も得意。大人ばかりに囲まれて育ったせいか、少しばかり背伸びしたような話し方をするけれども、それも全部ひっくるめて、皆に愛される存在だ。
歩きながら坊っちゃんは、お昼休みはみんなでサッカーをすることや、ひとりでゴールを三回もしたという話を聞かせてくれた。
道を歩いていると後ろから、東堂くん!と可愛らしい声が聞こえた。振り向くと、一台の自転車が近づいてくる。母親の漕ぐ自転車の荷台にシートが取り付けてあり、そこに座っている女の子が手を振っている。坊っちゃんの隣の席の子だ。
にこにこする母親と、満面の笑みで手を振る女の子。その自転車が横を通りすぎ、角を曲がって走り去る姿を見届けた。
ふと、坊っちゃんを見下ろすと、振っていた手を降ろしながら「優しそうなお母さんだな」とぽつり呟き、ただぼんやりと道の先を見つめている。
私は脚を止め、坊っちゃんの前にしゃがんで目線を合わせた。
「坊っちゃん。今からトメと寄り道をしましょう。あっちに美味しい饅頭屋があるんです。トメと、坊っちゃんと、いっこづつ買って食べましょう」
尽八坊っちゃんは、おっきな目を更に真ん丸くして驚いている。
「でも、学校が終わったら真っ直ぐ帰るって、お父さんと約束したし」
「なぁに、ちょっとぐらい構いませんよ」
「おまんじゅう食べたら、お夕飯食べられなくて、お母さんが怒るかも」
「その時は、トメが無理やり饅頭を食わせたー!て言いつけてくださいな」
「そんなズルいことはしないぞ!」
前のめりになる坊っちゃんに、私はにたりと笑う。
「さぁ、どうなさる?」
途端に坊っちゃんは、瞳を輝かせて頬を赤くし、うずうずした少年らしい顔になる。
「決まりですな。さぁさぁ行きましょう、饅頭が売り切れたら大変だ!」
私は立ち上がり、小さな手を取って歩き出す。
トメさんは悪い子だな!と、尽八坊っちゃんの楽しげな声が聞こえ、私は空を見上げて大笑いした。

***

饅頭がふたつ入った袋を持ち、もう片方で坊っちゃんと手を繋いで、小高い場所にあるちいさな公園に向かう。
私は、自分の少年時代のことを少し話して聞かせた。釣りをしている横で川に石を投げたり、近所の柿の木の枝を折って叱られたり、祖母の位牌に供えられた団子を盗んで食べ、親父にゲンコツを食らったこともあった。
坊っちゃんは笑いながら、どうしてそんなことをしたんだ?と、至極真っ当な問いかけをしてくる。私は、さぁ何故でしょうねぇ、と、今となっては首を傾げるしかなかった。ずいぶん昔の話だ。
ふと遠くの空を眺める。少し日も傾きはじめていた。
「トメさんは、今日、お母さんに頼まれたから学校にきたの?」
坊っちゃんが控えめな声で問い掛ける。
「ええ、そうです。奥様は毎日お忙しい方ですからねぇ。でも頼まれなくたって、東堂庵の者なら誰でも駆けつけますよ?私たちは大きな家族みたいなもんですから」
そう言うと、坊っちゃんははにかんだ笑顔で頷いた。
私は、奥様から渡された授業参観案内の用紙が、角が汗ばんで小さくクシャリと曲がっていたのを思い出す。おそらく、尽八坊っちゃんが緊張しきった手で奥様に渡した跡だろう。
父親も、母親も、忙しいのは重々承知していて、もしかしたら知らせることすらも悩んだかも知れない。尽八坊っちゃんは、そういう子だ。
「旦那様も奥様も、働き者で立派な方だ。坊っちゃんもおっきくなったら、親孝行しないといけませんなぁ」
坊っちゃんは真剣な顔で私に頷いた。
公園のベンチに並んで座り、袋から饅頭を取り出して坊っちゃんに手渡す。
まあるくて、やわらかくて、甘い饅頭。
坊っちゃんが、いただきます、と言ってぱくりと一口噛る。
「美味しい」
そして、ふた口目を噛ると同時に、おおきな瞳からポロポロと涙が溢れ出た。

ひとつ、思い出した。
あのとき、位牌の供えられた団子を盗んだのは、祖母がまた、雷みたいに叱ってくれるのではないかと思ったからだ。
まあるくて、やわらかくて、甘い団子を持って、川沿いの土手でひとり泣きながら食べた。

尽八坊っちゃんは、目を何度も手の甲で擦り付けるが、涙は次々と流れ落ちていく。
寂しいのに、寂しいと言えない。そんな小さな男の子の意地に、甘い菓子が染み渡っていく。
「トメさん、誰にもっ、言うなよ?…かっこ悪いから」
俯いてしゃくりあげる坊っちゃんの、その小さな頭を撫でた。
「トメはなんにも見てませんよ。私等みんなの自慢の坊っちゃんだ」
私も手にした饅頭を頬張った。
口に広がる優しい甘さを、坊っちゃんとふたりで暫し味わった。

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