D02『All I can do is …』

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 薄力粉、バターに卵、グラニュー糖。今回はアーモンドプードルも入れようかな。きちんと材料を量って順番にボールへと加えていく。
 まだ粉っぽい生地をサクリと混ぜてボールを回す。何度かそれを繰り返していると、ふいにピアノの音が聞こえて私は視線を上げた。カウンター越しに見えるリビングの窓は開け放たれていて、クリーム色のカーテンが揺れている。時折テンポがずれるこの音は、毎朝店の前を通る女の子のものだろうか。赤いランドセルにおさげの彼女。誰もが一度は聞いたことがある有名な曲に私は鼻歌を混じらせる。
 
 生地がだいぶまとまったところで手を止める。ひとまとめにしてラップで包めば、とりあえず一段落だ。冷蔵庫の中に生地を入れて扉を閉める。白い扉には丸い磁石で一枚の写真が留められていた。先輩と私たち。この春、部室の前で撮ったものだ。
 青空を背景にして、豪快に笑う田所さんはグシャグシャと手嶋さんと青八木さんの頭を撫でている。その隣で目を赤くして笑っているのは鳴子くん。中央に金城さんを挟んで、人差し指で涙を拭う古賀さんと表情の硬い今泉くんが並んでいた。小野田くんはそんな彼らを泣き笑いで温かく見守っていて。私と杉元くんがその側でピースサインを送っている。
 見慣れた光景をうつす写真。みんな入学した時よりも、少しだけ大人びた顔つきをしていた。私はそっとその表面をなぞる。指先で示された先輩の胸元には赤い花が付けられていた。
 「卒業おめでとうございます」この言葉を絞り出すだけで同級生の男の子たちは私以上に顔をぐしゃぐしゃにして涙を堪えていた。素直に泣いてしまうことが出来たら良かったのに。寂しくなんかない。それを言ったら嘘になってしまうから。
 実際に卒業式を迎えてこそ込み上げる気持ちがある。美しく咲き誇った桜の花びらが、体育館の扉から風と共に舞い込む。暖かな春の匂い。何度も練習し、歌った仰げば尊しの歌詞がその日だけは特別に聞こえていた。
 巻島さんに続いて田所さん、金城さんがいなくなってしまうということ。それは寂しさと同時に、先輩たちの大きさを彼らの前に突きつけた。どんなに背伸びをして強がってみても、すぐにその差は縮まらない。一年生だった私たちが必死で見つめていた背中はもう、ないのだ。
 ペダルを回して回して、自分の弱さを改めて感じて。数センチでも先へ進もうとする彼ら。私は努力を知っている。いまは敵わないことも知っている。だってずっと見ていたから。
 
 手を洗い、オーブンの予熱を入れた。私はリビングの椅子に座る。机に頬杖をついて目を瞑るとあの夏がフラッシュバックした。馬鹿みたいに照りつける太陽の熱。通り過ぎる自転車の風切り音。全力でペダルを回すチームメイトの想い。もう半年もせずにあの季節がやってくる。
 一度瞼を持ち上げて、ほうとため息を吐いた。時刻は午後二時過ぎを示している。今日、部活は休みだけれどみんなはきっとどこかで走っているのだろう。窓からは柔らかい光が差し込む。
「幹、居るか」
 後ろから名前を呼ばれて振り返ると兄が廊下から顔を出していた。
「あれ、お店は?」
「いまは客いないから大丈夫だ。すぐに戻るしな。それより、ほら」
 ゆっくりとこちらに近付いた彼は袋から何かを取り出して机の上へと置く。青色の缶だ。表面には英語で文字が書かれている。
「紅茶?」
「ああ、さっきお隣さんから貰ったんだ。おまえこういうの好きだろ」
「うん、ありがとう。いまクッキー作ってるから出来たら一緒に飲ませてもらうね」
 丁度、この種類の紅茶は切らしていたから嬉しい。後でたっぷりのミルクを加えて飲むことにしよう。
「オレの分はあるんだろうな」
「もちろん。今回は部活のみんなにあげるつもりだから、沢山焼くよ」
 机の端に置いてあったタッパーを開いて、中に入った様々な種類の抜き型を見せる。そのなかでも新しく買ったものを手に取った。
「じゃーん。ついに自転車の抜き型買っちゃった」
「へぇ、最近は何でもあるんだな」
「なかなか見つからなくてね。結構、探したんだよ」
 彼は人差し指の背を顎にあてて、ジッと型を眺めた。私と同じで自転車と名のつくものには目がない。
「出来が楽しみだ。……っと、そろそろ戻んねぇとな」
 満足したのか、そう告げて手を元の位置に戻した。そのまま言葉の通り背を向けて、扉の方へ歩き出す。しかし数歩進んだところで歩みは止まった。私が不思議に思っていると、彼は改めてこちらへと向き直る。瞳がぶつかった。
「なあ」
「なに、お兄ちゃん」
「なんか考えごとしてたのか」
 先程のため息が聞こえていたのだろうか。相変わらず妙なところで鋭い。正直に答えるべきか、少し思案するも隠すことではないと結論づけた。
「うん、ちょっとね。インターハイのこと考えてたんだ」
 組んだ両掌を前にむけ、一回大きな伸びをした。こちらを見ている彼から視線を逸らす。
「……心配か」
「まさか。みんなは勝つよ」
 返事を考えるより先に私の口は動いた。そんな様子を知ってか兄は私の頭を撫でる。子供扱いをされるのは嫌だが、いまだけは少し嬉しかった。
「おまえは頑張ってる。ちゃんと、マネージャーとしてやれてる」
「うん」
「幹自身が何より分かってんだろ。自転車競技ってのは選手一人じゃ成り立たないってことをよ」
 自転車オタクな私だから良く知っている。サポートをする人々の大切さを。自転車競技は何が起こるか分からない。それは確かに素晴らしい魅力だけれど、同じだけ恐ろしい側面を持っている。
「それにおまえだけが変わってない、そんなわけがないだろ」
 指先が僅かに震えた。数回、瞬きをして兄の方へと顔を向ける。
「総北は勝つさ、今年も」
 いつものように優しい表情を浮かべ、ぽんぽんと私の頭を撫でた。そして今度こそ彼は部屋を後にして、店の方へと戻って行った。
 
 
 冷蔵庫から取り出した生地をめん棒で伸ばして厚みを均等に揃える。自転車の型で1つ1つ生地を抜いていった。出来上がった沢山の自転車がクッキングシートの上に並ぶ。頭の中でその自転車に端から番号をつけていく。まず一桁台。一から六までの数字が横に並んでいた。自然と笑みがこぼれる。私はシートを鉄板の上にのせ、オーブンに入れた。明日はこれを持って、部活に行こう。
 
 クッキーが焼ける良い匂いが鼻腔をくすぐる。ふと、思い立ってリビングの窓へと近づいた。サンダルを履いて、庭に出ると頭上には雲一つない青空が広がっていた。
 
 今年、総北は絶対にインターハイで優勝するから。
 全力で信じてみんなのサポートをしよう。それが私の出来ること。
 

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