D01『救難信号』

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秦野は表丹沢の登山口でさ、でかいリュックとゴツイ靴の人達をよくみかけたもんだよ。
地元の小学生は総合学習の時間に山の知識を教わるんだ。救難信号もそのひとつ。
 
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
十秒おき一分間に六回ライトを点滅。
一分間休んだら再び点滅を繰り返す。
 
もしそんな明滅をみつけたらすぐに教えろって言われてたけど、部屋の窓から眺める丹沢山地で発見したことは一度もないな。
見たことあるのは、日が翳って夕闇が迫る稜線をジリジリ移動する小さな光の列。親父が時々呼び出されて出掛けるのはそんな時だった。
「山ン中じゃ手術もできないだろ。外科医が役にたつのかよ」
当時反抗期だった俺は憎まれ口を叩いた。
「死亡診断は医師なら誰でもできる」
「だったらよ、わざわざ山に入らなくても麓で待ってればいいじゃねえか」
遭難者がでるほどの危険な現場なんだろう?
「救助隊に危険が及びそうな時、死体なら荷物として置いていける」
 
 
 
ニモツハオイテイク
 
 
 
中学校の自転車競技部で、親父と同じことを言う奴に出会った。
福富寿一。
父親も兄貴もロードレーサーの自転車エリート。
 
あれは通称 ‘表ヤビツ’、約11kmの近所の峠をロードバイクで一緒に上っている時だった。
「荷物は置いていく」
「そりゃないぜ寿一。まだ蓑毛バス停も通過してねえのに」
「いつもの覇気がない。お前は間もなく死に体になるのではないか」
やれやれ、全てお見通しだな。
「実は寝坊しちまって、トースト一枚しか食ってないんだ。腹減って力が入らねえ」
「シャリバテか。これでも食え」
渡されたのはアルミパウチのジェル。水飴みたいで食った気がしないんだよな、これ。
「できれば固形物の方がありがたいんだけど」
「ハンガーノックになってから固形物を食っても手遅れだ。ジェルは吸収が早い」
そういえば補給と吸収の時間差についてレクチャーを受けたっけ。忘れちまったって言ったら寿一は怒るかな?呆れるかな?
パウチの上部をピッと切って口にくわえてから中身を絞り出す。さらにボトルを握力の限り握って口内に水分を勢いよく注入。喉にまとわりつくジェルを無理矢理流し込む。
ふうと一息ついて、寿一の背中が小さくなっていないことに気がついた。
「もしかして待っててくれたのか?荷物は置いていくんじゃなかったのかよ?」
「荷物は置いていくとは言ったが、新開は荷物ではないと判断した。もう走れるだろう?」
わかりにくいけど、これが寿一の優しさだ。
「寿一は親父とは違うな」
「ム?」
振り返った寿一の眉がひそめられた。
「新開の父親は知っている」
「なんだよ急に?」
「多数を助けるために誰かを置いていく判断は強くなければできない。俺もそんな強さを身につけたいと思っている」
「なんだよそれ」
俺は寿一を誉めたんだぜ?なんで寿一をけなしたみたいになってんだよ?
「遅れた分を取り戻す。ペースをあげるぞ」
寿一の背中が力強く躍動する。鍛えられた大腿と脹脛がリズミカルにペダルを回す。
チェレステカラーのビアンキは、空に溶け込むように静かに滑らかに加速していく。
 
寿一は今のまま強くなればいい。
救難信号を送りそうなヤツは俺が先に発見してやる。
寿一が孤独な強さを発揮するチャンスは作ってやらない。
 
 
 
「少し話が長くなっちまったな。そんなわけで遠慮はいらないぜ?腹減る前に食わないとハンガーノックは防げないんだ。もう一回聞くけど、パワーバー食うかい?」
 
 
 
箱根の山に寿一の低い声が響く。
「荷物は置いていく。だが、我が箱根学園に荷物はいない」

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