C02『プロセルピナによろしく』

  • 縦書き
  • aA
  • aA

歓声が遠く聞こえる。新開は両手を広げ、チームジャージに胸を張りながら白線を越えた。ギシギシと疲労を抱えた脚に、「踏めた」と思う。
タイヤひとつ分は差がついたことだろう。スプリントに入る前から、最良の位置につけていた。スムーズに回った足に、十分な余裕を感じながらラインを超えた。その証拠に、びかびかに割れたマイクの音で、己の名前がコールされている。が、歓声はやはり遠い。
ふと、僅かに高く響く声が聞こえた。「やったな、隼人!」と呼ぶ色は、こちらのスタート前とは随分違う。「久々に実力を発揮すればいいだけのことではないか」と淡々と言っていたくせに、なんだ、やっぱり心配してくれてたんじゃないか。新開が軽く手を挙げて応じれば、東堂は満面の笑みを浮かべた。
歓喜と安堵に翻弄されながらも、クールダウンをしなければと漠然と考えている。マネージャーを探してゆっくり足を止めたところで、今度は後ろから背を叩かれた。競り合った他校のスプリンターが、何か声を掛けてくれていたようだった。悔しさの滲む表情に、新開はただ笑みだけを返す。ごめんな、よく聞こえないんだ。喉の奥で呟いて、健闘を讃える腕を軽く叩き返した。どくどくと耳元で血が鳴っている。復帰レースだというのに、思い出すのは「あの日も尽八は笑ってたな」ということばかりだ。
いつだったか、新開は東堂に女神の話をしたことがある。昔聞いた、ザクロを食べた女神の話だ。その女神は冥界でザクロの実を食べたせいで、その数だけ冥府に留まることになったとか。新開は不思議とこの話に親近感を覚えている。
そんな風に話したところ、東堂は面白そうに口角を上げた。すいと顎を撫で、潜めた声でこう言った。
「日本でも似た話があったな。黄泉竈食ひと言ったか」
「よもつへぐい」
聞き慣れない言葉を繰り返せば、東堂はそっと頷いた。
「なんでも、死者の国のものを食べると、元の世界には帰ってこれないらしい」
「まじか。親しみ感じちゃダメなやつだな」
なんだか物騒な話になってきた。新開が真面目くさってそう言うと、東堂は微かに笑みを深めた。
「まあ、新開が親近感を覚えるのはペルセポネーの話だろう?」
「ああ、うん。そんな名前だったかな」
「ならば今度はローマ神話や西洋絵画にもあたるといい」
約束だぞ、と囁くチームメイトは、そういえば神の二つ名を戴く男だった。夕陽の滲む黒々した瞳に見据えられて、新開はようやく首肯を返すことができた。
どうしてあんな話をしたのかは覚えていないのに、あの夕暮れは時折新開の脳裏をよぎる。希望を透かした東堂の笑みも、美しい女神への親しみも。きっかけに差はあるけれど、少なくとも、今日の回顧は勝ってしまったからに違いなかった。
頭を垂れるとハンドルにぶつかる。ごつり。硬い音がした。痛みはあれど、思考は浮上してこない。重く湿った髪まで鬱陶しい。
だって踏めたのだ。踏めてしまった。そして先頭を取った瞬間、新開は確かによろこびを感じた。しばらく忘れていた、勝利の味がした。懐かしい勝利の味がした。儘ならないなあと嘆息を漏らし、何度目かもわからない、謝罪の言葉が噴き出した。

ごめんなウサ吉。
おれは近いうちに、ザクロを食べるよ。プロセルピナと違って、きっと進んで、その実を手に取ることだろう。

赤い実が脳裏に浮かんで目を開けた。強烈な色がチカチカと瞼に焼き付いている。暗い考えごと振り落とすように頭を振れば、ちらちら汗が散った。乾いている。やがてマネージャーが何か差し出すのを視界の端に捉えて、新開は反射で受け取りぐいと握った。
ボトルを押し込み、ドリンクを呷る。汗みずくの体に染み渡るように、ほの甘いスポーツドリンクが喉を通る。勢い余って零れ落ちた半透明のそれが、べたりと顎を濡らした。疲労に絞り切った喉が広がる。胃が冷たい。酷く美味かった。今の新開が求めていたのは、きっとこの味だった。
気付いてしまったからには、もう自転車をやめることはできないだろう。新開はぼんやり空を見上げて思う。走るよろこびや苦しみはとうの昔に知っている。勝利はそのひとかけらで、そして何より甘いデザートだった。
儘ならないなあ。繰り返したのと同時に、遠くから名前を呼ばれた。振り返れば、荒北がゴールを越えたところでニヤリと笑って拳を突き上げいた。今日も抜群に働いてくれた、箱根学園のアシストからの労いである。
「ザクロを育ててたの、意外と靖友だったりして」
屈託のない顔についそう零すと、「聞こえねェぞ」と楽しげな怒鳴り声が聞こえた。「今日も冴えてたぜ」と撃ち返したところで、早速彼のもとへ駆け付けた後輩の手に見慣れた黒い炭酸を見つける。ぷちぷち弾ける甘味を浮かべて、新開は今度こそ苦く笑った。
「あーあ、ゴーラ飲みてえ」

C02『プロセルピナによろしく』の作者は誰でしょう?

  • 壬生川タマミ (50%, 6 Votes)
  • シア (25%, 3 Votes)
  • yumeji (17%, 2 Votes)
  • 小路 (8%, 1 Votes)
  • ちば (0%, 0 Votes)
  • SNAO (0%, 0 Votes)
  • とおこ (0%, 0 Votes)
  • サンカクスキー (0%, 0 Votes)
  • 須三須 (0%, 0 Votes)

票数: 12

Loading ... Loading ...

←C01『寒咲家の食卓』へ / C03『奥の団体の赤髪の声がデカすぎて音声入力できた件』へ→

×