B08『つまらないものですが』

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「いいんすか、荒北さん。あの二人、マジでほっといても」
「アー、大丈夫じゃネ。たぶん」
 テーブルを挟んで斜向かいの席に、だらしなく座っている先輩にオレが聞くと、そいつは読んでいるマンガから目も上げずにテキトーな返事を寄越しやがった。
「さっき福ちゃん、外出許可取ってちょっと買い物行くつってたし」
「……買い物って、何買いに行ったんですかね」
「オレの予想だとアップルパイ」
「は? それってあの人の好物じゃないですか! 新開さんじゃなくて」
「そーだケドォ」
 一向に話が見えないオレ、黒田雪成は同じく寮の談話室の椅子の上で頭を抱える。その脳裏によぎるのは、今から数時間前の出来事だ。
 今日の夕方、部活の練習も終盤に差しかかった頃。外を走り終わったオレが屋内練習場へ戻って来ると、そこでは何やら緊迫した空気が張り詰めていた。運悪くその場に居合わせていたのは主にオレと同学年の連中で、そいつらの視線の先に目を向ければその不穏さの正体は一瞬で知れた。そこから、わずか数秒。オレ達ギャラリーが見守る中、一つ上の先輩である福富さんと新開さんが、盛大な殴り合いのケンカを勃発させたのだ。
 福富さんが相手の胸倉を掴み、新開さんもそちらを睨み上げたかと思えば、ほぼ同時に、二人は互いの横っ面めがけて己のこぶしを繰り出した。手加減もなし遠慮もなし、おまけにそれぞれ体格も良い二人が激しくやりあう様はライオンかクマか、いっそゴリラ同士のそれのごとく豪快で、オレや周りの連中は唖然として観ていることしかできなかった。ケンカの理由が何なのかは知らない。知ったことじゃない、何しろオレ達下級生は普段あんなにも信頼し合った、理想のコンビとも言える二人が突如起こした大ゲンカに正直ビビリ通しだったからだ。
 その後遅れてやって来た東堂さんら同級生の仲裁もあり、もっと上の先輩やコーチらが駆けつける前に二人は引き離されたのだが、それ以来、練習が終わって寮に戻り、夕食の最中でさえ二人はずっと険悪ムードだったみたいだ。しかし、遠くからチラチラと様子をうかがうしかないオレ達後輩はともかくとして、何故か、二人とそれなりに近しいはずの荒北さんだけは顔色一つ変えずにいた。オレはそれを不審に思って、談話室内の自販機に用があったついでに、たまたまここに居た荒北さんにこの話を振ったというわけだ。元ヤンキーだからか何なのか、ケンカだの殴り合いだのの荒々しい場面にゃ慣れていて、そういう意味じゃ動揺してねーんだろうがにしてもいいのか荒北さん。アンタの大好きな福ちゃんじゃねーのかよ。
「黒田ァ。たとえばオメーが泉田とケンカしたとして、仲直りの印に、つったらナニ持参で行くよ」
 相変わらず顔を上げないまま、不意打ちのように投げかけられた質問にオレは一瞬、返答に詰まった。そうして少々逡巡し、結局、一つしか出てこなかった答えをそのまま口にする。
「……タコ焼き買って持って行きます」
「アイツってタコ焼き好きなのォ?」
「そっすけど」
「マージでェ、ま、そーゆーこったろな。普通は」
 荒北さんはそう言うとやけにしたり顔をし、やっとマンガをパタンと閉じてテーブルの上に放り投げる。談話室の隅に置かれている、背表紙がだいぶボロくなった一昔前の少年マンガ。
「仲直りっつーか、お詫びの品でしょ? 一応。フツー、相手の好きなものを選ぶぐらいのことはするじゃないですか」
「ハッ! 福ちゃんはそこがちげーんだヨ」
 なんでアンタが得意気なんだよ。
「福ちゃんはなァ、こゆ時、自分の好きなモン買って来るんだヨ。間違ってもヤツの好物じゃなくな」
「ハァ!? 何でだよ」
「前に聞いたことがあんだヨ、新開のヤローから。あの二人、付き合い長ェからケンカなんか何回もしてるし、お互いに相手にしか張らねー意地もあっから、根っこの部分で譲れねェトコなんて実際数え切れないぐれーあんだとよ。新開自身がそうだって言うように、たぶん福ちゃんも、どんなケンカしたとしても自分が100パー悪いとは大抵思ってねーんだわ。だから新開の好物を買ってやろう、ていう気にはならねェ、っつーより、まァとにかく」
 その時、荒北さんは笑ってこそいなくて、けれど珍しく毒も牙もない声をしていた。
「とにかく早く仲直りしちまおう、仲直りしたいっていう気持ちだけが先走ってて、でも、譲れねートコがあるから自分の好きなモンを買っちまうんだ。新開と一緒に食うためにな」
 そう言って、荒北さんは再びテーブルの上に数冊積んであるマンガを物色し始める。よく見るとそこには少年だけでなく少女マンガも混じっていて、やはりどの本も年季が入っていた。
「だから、その食いモン持って現れた福ちゃん見てっと、マジで福ちゃんらしいなって思って、ケンカしたこともそのワケもいきさつも、怒ってたこともどーでもよくなってくんだってヨ。ハッ、お熱いこった」
「え、荒北さん妬いてんすか」
「ッせェな前歯へし折られてーのかテメェ」
「うわコッワ」
 途端に鋭く尖った声音と刺されそうな視線をやり過ごしつつ、しかしオレは、これまでの荒北さんの話を経てようやく納得しかけていた。
 長い付き合いになればなるほど、ケンカをした時、相手が自分の何に対して怒っているのかなんておおよそ解ってしまうものだ。そして同じ学校同じ部活、さらには同じ寮生で毎日顔を突き合わせる相手ともなれば、次に働くのはとにかく、とりあえず早く仲直りしてしまいたいという心理。オレにも泉田塔一郎という小学校からの幼馴染がいるからそれは何となく解る気がする、オレ達だってこれまでまったく、何のいさかいの一つもなしにやってこられたわけではないのだから。
 ……いや、オレと塔一郎はフツーに仲良いし、何よりアイツが優しいからあんなケンカにはならねぇけど。大体塔一郎のやつ、一時期急にデブったかと思ったら、最近やたらと鍛えまくって見るからに全身ムキムキだし、オレなんかちょっと殴られたら一発で吹っ飛ぶ自信がある。ケンカにならねーよ、やっぱわかんねぇわマジで大丈夫かあの人達。
「だァらよォ、福ちゃんと新開のことはいーっての。ほっときゃヨ」
「イヤ、っでも荒北さん」
「ま、確かに早いとこ、仲直りしてくれるに越したことはねーケドな。あの二人のケンカが長引いて、キレたら一番厄介なのは東堂だ。あのカチューシャ野郎が怒ったとこで別にコワくも何ともねーけど、明日の登り練で調子こかれっとウゼーからァ」
「あー……確かに……」
 荒北さんの口から出てきたその名前に、オレは今日イチで背筋が寒くなる思いがする。殴り合いとは縁遠そうだが、ある意味、怒らせたら一番怖いのは東堂さんかもしれねーな。同じクライマーの後輩として教えを乞うという立場上、機嫌を損ねたあの人に山でしごかれるのはご免被りたいモンだ。そうだ。あの理想的な二人組の大ゲンカを目にして、ただうろたえることしかできなかった一後輩のオレにできることなんてせいぜい、明日の我が身を憂うことぐらいだったんだよな。
 誰の好物でも何でもいいから、お詫びの品で、食いモンで単純に解決する程度のケンカであってほしい。そう思ったわずか数分後、頬にでかい湿布を貼り、まさに絵に描いたようなアップルパイの入った箱を手に、新開さんの部屋へ向かう福富さんの姿を見つけたオレは談話室の椅子の上で撃沈し、荒北さんはまったく興味なさそうに次のマンガを読み始めていた。

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